« 2012年4月1日 - 2012年4月7日 | トップページ | 2012年4月15日 - 2012年4月21日 »

2012年4月8日 - 2012年4月14日

2012年4月14日 (土)

雲仙鉄道 その4~昭和2年の長崎日日新聞による★隠れた名所/木津

Photo

汽車道から見た木津です。日日新聞の紙面を見ると。

Dscn2465

四角の所に大きく木津の事が載っています。「初めて世に現はれる新名所 木津辨天」と

言う見出し。「小濱名所としては富津の辨天が随一とされて居たが、今回鐵道の開通によ

りて、隠れたる名所が初めて世に紹介さるる事となった、夫は木津で、景勝の地として豫

てより評判であったが何分交通不便のため滅多に訪れる人がいなかったのである。・・・・

木津辨天の風光は富津辨天のひでない、・・・・」。

Photo_3

「木津駅」ではなく、「木津の濱」、新聞にこの事も載っていましたが、これは奈良に「木津

駅」というのがあるので、「木津の濱」にしたそうです。記念碑には「木津の浜駅」となって

いますが正規には「木津の濱」。せっかくの近代化産業遺跡に指定するなら当時のままの

文字で書いて欲しいものですが・・・


バスの停留所をみると。「木津駅跡」になっていました。

Photo_4

道沿いに、デーサービスがありますが、ここは木津の保育所跡、その前は富津小学校の

分校、「木津分校」だったたそうですが、入り口の右に記念碑が、近ごろ、こんな所ばかり

目がいって・・・

Photo_2Photo_5

横左から「高校建設」、上から「紀念」。ここらは、小浜高校しかないはずなのですが、ここ

の職員も、木津の人にも聞いてみたのですが、誰も書いてある文字には、気づいてすらい

ませんでした。50年配の人に聞いても、小学校に行くときはすでに建ってとのこと。

なんなんでしょう?



木津には宗像神社がありますが、灯籠には文政の文字がわずかに読めました。

Photo_9  Photo_8

宗像神社の入り口に、恵比寿様2体と、ひじき様と呼ばれる神様が祀られています。

一番左が「ひじき様」です。祠には何にも入っていませんでした。

Photo_10

この「ひじき様」、「おばま 史跡めぐりガイド」によると、右側に「安政六巳未歳(1859)九

月穀旦建立」とあるそうで、残念ながら文字があるのは分かるのですが、風化して読み取

れませんでした、続けて、「志自岐権現のことであろう。穀旦は吉日のこと。志自岐権現は

小豆島移民の守護神といわれている。」と書いてありました。島原の乱後、無人になった

村に小豆島から移民させられた事は事実なのですが、こんな所まで来たのでしょうか。

なお、ここには「丹波構え」という家の作りがあり、数軒の家をぐるりと一囲みし門も一つに

してあるそうです。

壇ノ浦の合戦の平家の落人が隠れ住んだと名残であるといわれています。

Photo_11

50才くらいと70才くらいの人が話をしていたので、「平家のご子孫であられますか。」と聞

いたところ、一笑にされました。なお、「丹波構え」について聞いたところ、以前はこの道の

所まで浜辺であったとか。単なる波よけではないかと言われましたが、私も専門家ではな

く、良く分かりません。

ここの恵比寿様は実にいい顔をされていますので、時間があったら見にいってください。



参考:「小浜町史談」「あばまー史跡めぐりガイドー」


2012年4月13日 (金)

雲仙鉄道 その3~愛津駅はここだった

1

今日は長崎日日新聞の記事を少し離れます。

愛野村(現雲仙市愛野町)とは、明治22年、旧愛津村と野井村が合併し愛野村となった

ものです。雲仙鉄道の線路を辿ってみると、この愛津駅から終着の愛野駅までの経路が

どうにも分からない。


買い物ついでに、確認しようとウロウロしていたら、ちょうど80年配の年寄りの方がいた

ので声を掛けたら、何となく怪訝そうな目で見られましたが、汽車道と言ったとたんに嬉し

そうに教えてもらいました。7~8才のとき廃線になり、線路処理のトロッコに乗って遊んだ

とか。


愛津駅はこの道沿いにあったと思っていたのですが、本当はこの後ろの畑の中ににあっ

たそうです。畑の中に駅の標識立てて欲しかったですね。邪魔でしょうが。

ですから車で走っている道路、正確に言えば汽車道ではないということです。

2

後ろの畑の中を通り、赤で囲んだ所に自動販売機が。ここから左に曲がっていたそうで

す。

P4130137 

ただ、ここは家が建っており行き止まりになっていました。

4

この道沿いに少し行くと左に入る道がありますから、そこをいくと、下の写真のような感じ。

5

ここを向こうから、入ってきましたが、手前に走ると川沿いに出ます。右の建物の裏側が

川になります。

6

赤で囲んだ所が、自動販売機があったところの家でしょう。回れ右をすれば川沿いの道。

多分この道が汽車道でしょう。

7_2

ここをまっすぐ行くと、国道にあたりますが、国道を横切ると短い橋が。橋を渡たると右カ

ーブ。島原方面になりますが、昔は少し道が違っていて、諫早方面から島原、小浜方面に

行く時はこの橋は使ってなかったはず。ひょうっとするとこれが鉄橋だったのかな?

写真右の方が右カーブになりますが、直線で行ければ愛野駅になります。今は、倉庫、家

などが建ってまっすぐは行けませんが。


もしかしたら、当時は家も何にもなく、汽車は愛野駅まで直進していたのかも知れません。

ここらあたり、また、しつっこく調べたいと思います。当時の地図が手に入ればすぐ分かる

のですが、探してはいるのですが出てきません。

8

さっき書いた昔の道路。

9

左右に橋がありますが、左の道路が、今、皆さんが使っている道路。写真手前の方向に

行くと、島原、小浜の別れ道になります。さっきの短い橋があります。


昔は、右の橋を使っていました。手前の方向に走ると島原と小浜の分かれ道。島原と小

浜へ行く車がいつも渋滞していたので左の道を新しく作ったのです。

この、古い橋今は通行止めになっています。遺構が好きな方は見物ですよ。


雲仙鉄道の跡を走ってみたいかたは、何かの参考にしてください。


さて、今日は漢方のお医者さんの所へ。いつもは満員なのに、今日は待っている患者が

奇跡的にたった一人。お医者さんと話をしていると、最近もTVで漢方の番組があり、問い

合わせがかなりあったとか。漢方は魔法じゃないんですがねと言われていましたが・・・


帰りは、ちょうど昼時になったので・・・お一人様昼食会でした。

10 11

12 13

ご馳走様でした。おいしかったrestaurant



雲仙鉄道 その1は→こちらをクリック

雲仙鉄道 その2は→こちらをクリック


まだまだ雲仙鉄道続きますよ。線路は続くよどこまでも・・・・


2012年4月12日 (木)

雲仙鉄道 その2~昭和2年の長崎日日新聞による★2つの鉄道/5箇村の思惑

_0002_2

昨日の続きになりますが、愛野~小浜まで2つの鉄道会社、愛野~千々石の温泉鉄道、

千々石~小浜への小浜鉄道がありますが、どうしてこの2つの鉄道会社があったのか。

Dscn2479

「鐵道が敷設さるる迄/島原鐵道の豫定線・・立ち消えになつた愛濱電鐵・・・/五個村聯合

の分裂」、何となく週刊誌みたいな感じですが、これについての内情は郷土誌にも載って

ないので紹介してみたいと思います。全文長いので概略になります。


なお、島原半島に詳しくない方は、上の地図を参考に。緑の枠は島原鉄道が通っている

町です。今回の話題は赤い枠で囲んだところです。なお、この地図は島原歴史懇話会発

行の島原半島大字小字地名集覧に付いている地図からとったものです。興味のあるかた

はクリックすると拡大しますからクリックしてみてください。


さて、新聞の概略です。少し長くなります。

当時、島原半島に都会は、島原が第一、これに続いて温泉郷たる小浜。諫早~愛野まで

の鉄道を島原へ伸ばすか、小浜へ伸ばすかには相当議論があったが、建設費と収益の

問題を研究したが、客の多少より、工事の難易から島原に決定。後日、小浜まで敷設を。


千々石、小浜、串山方面の各村は、他日敷設することを望み、発言権を得るため、島原

鉄道の株式をかなり買ったが、愛野~小浜間は難工事で莫大な公費を要し、工事の運び

に至らず「島鐵では全く匙を投げ出した形であった」。


そこに大正七、八年「島原水電」(注1)の高見氏が電鐵を敷設したら資本金も多く要しな

いだろうと提唱。貨物より人を主とするので電鐵が適当だろうと提案。「愛野、千々石、小

濱、北串山、南串山の五箇村の有志が再三會見して義を進め、茲に愛濱電鐵なるものが

生まれた」。


ただし、あまり力こぶの入れ方が足らず、また、当時、好景気時代で物価労銀が高騰し、

工費も高価になるため、「當局も前途多難を危ぶみて不許可の指令を下したのであっ

た、これを機會として千々石村が脱退したので、五箇村聯盟が分裂」。


しかし、「千々石村有志はひそかに義を進めて愛野村有志と共同し愛野から千々石まで

の温泉鐵道を計画した」。株式を募集し、小濱まで延長する意向を漏らしたので、関係町

村は義務的に応募したのみ。


千々石まで鉄道がのび、もう一歩ということで小浜側が交渉したが、千々石~小浜間は難

工事。加えて経済が反動期に入り、資金調達が困難で「他日機会があったら延長すると

躰よく刎ねられた」。このため「小濱側は獨力をもって萬難を拝して鐵道を敷設せねばなら

ぬ破目になり、所謂窮鼠猫をかむという必死の勇気を鼓して小濱鐵道を計劃するにいた

った」


しかし、短距離に2会社があるのは不利であると、当時の渡邊知事が調停を試みたが、

「愛濱電鐵流産依頼の經過があり、双方とも意気地になっているので折り合わず、續いて

平塚知事時代に補助金が縣議會で議せられた機會に重ねて調停が行われたが又もや不

成功となり、小濱鐵道は獨立会社会社として敷設された」のでした。


なお、乗客は諫早で乗り換え、愛野で乗り換え、千々石で叉乗り換えとなると苦痛になる

ので、協定の上、愛野~小浜まで直通運転をすることに。

ということで、短距離に2つの会社が出来たということです。なお、諫早~小浜の直通は昭

和2年から。両者は昭和8年に合併し、雲仙鐵道と改名をしました。


注1、当時電力は事業者がいろいろあって電力を供給していたみたいです。

   長崎県は九州電灯鐵道、島原水力電気、厳原電力、平戸電力等、供給している者1   

   2、電気鐵道を経営1等々20ばかりあったそうです。


まあ、いろいろあったんですね。私の人生みたい。


ところで、今日地産地消の店で買い物をしていたら、知り合いの女性から声を掛けられ、

丁度昼飯時で、今日は珍しく、いつものCOZYでお二人様昼食でした。楽しかったかっ

て?知り合いの女性というのがなんと、かみさんでしたから・・・帰りにお口直しに「ドラえも

んケーキ」を買ってきて一人で食べました。

P4120088 P4120087

雲仙鉄道 その1は→こちらをクリック



2012年4月11日 (水)

雲仙鉄道 その1~昭和2年の長崎日日新聞による★口之津鉄道株式会社

Dscn2503

偶然、昭和2年の長崎日日新聞の小浜鉄道開通時の記事を見つけました。記事といって

も、一面全面記事です。

Dscn2465

以前から、この鉄道には二つの疑問がありました。一つは、この短区間(愛野町~小浜

町)になぜ、2つの会社があったのか。後で合併をしますが、大正12年開通の温泉鉄道

(愛野町~千々石町)、昭和2年開通の小浜鉄道(千々石町~小浜町)です。もう一つの

疑問は、なぜ鉄道が温泉街まで行かず、手前の北野までしか運行しなかったかです。


この新聞を見ると、やっと疑問が解けました。特に前者には、郷土誌にも載ってない、当

時の愛野、千々石、小浜、北串山(現雲仙市小浜町)、南串山の駆け引きがあったよう

で、詳しく書きたいのですが、今日はアルバイト。老人クラブ(私、まだ年齢が足りずに入っ

てませんが)の総会資料の作成のため、後日書きたいと思います。


また、この路線のことは良くブログに載っていますが、駅跡の駅名の看板写真ばかりが多

く、地元としては、もう少し気をつけて見て欲しいところもありますので、それも合わせて、

飛び飛びになると思いますが、書いていきたいと思います。


この新聞、もう一面鉄道開通祝いの紙面があります。

Dscn2464_2

これを見ると、当時、旅館組合に入っている旅館が47軒ですから、この頃から、かなりの

有名温泉だったと言うことが分かると思います。


さて、この新聞のお祝いの紙面で、鉄道関係が、島原鉄道株式会社、温泉鉄道株式会

社、今回開通の小浜鉄道株式会社、そして口之津鉄道株式会社の社名が。前の3会社

の名前は知っているのですが、口之津鉄道株式会社は初耳。


調べると、大正2年島原鉄道が諫早から島原湊(現南島原)全線開通。その後大正8年口

之津鉄道株式会社が設立(最も社長は植木元太郞、島原鉄道の社長です。何のために

別会社にしたのか?)、大正11年島原湊から堂崎(現南島原市)、昭和3年に加津佐まで

全線開通、昭和18年に島原鉄道が口之津鉄道を合併しています。なお、平成20年に島

原外港から加津佐まで廃線になっています。


しかし、昭和2年にこの島原半島に4つも鉄道会社があったとは初めて知りました。当時

の新聞を読むと面白いですね。いろんな事が見えてきて。


さあ、アルバイト、アルバイトscissors




2012年4月10日 (火)

中国嫁日記/第2巻~買っちゃいました

Photo

中国人嫁日記、第1巻を買って笑い転げていましたが、この手の本は2巻、3巻となってい

くとパワーが落ち、マンネリ化するので買うこともないだろうと思っていたけど、パラパラと

読んでいくと面白かったので、また、買っちゃいました。


中国といえば、私も行ったことがあるんです。日中国交正常、時の首相は田中角栄でした

が、九州各県合同で「日中友好九州青年の船」ということで、九州の青年を中国に派遣し

ていたのです。

私は、団員でなく、役員で出張旅費までもらい、しかも、女子の班の班付き役員。

_0001

若かりし頃の私も写っていますが、良かったですね。美女に囲まれて。

このときは、鹿児島~瀋陽~天神~北京と、昭和54年のことでしたが、2週間ほどまわり

ました。

Photo_2

旅大港についたときの歓迎風景ですが、この青年の船が第8回とあって、歓迎も随分縮

小されていたみたいでした。


上の写真の横の方で、ビルを建てていましたが、足場を建てて、人海戦術で一枚一枚煉

瓦を積み上げて、しかも、歓迎式典が終わるまで、仕事をやめて、皆こちらを見ていて、

この国、こんな事で大丈夫かなと思いましたが、今や中国に追いつかれしまいました。

もちろん当時は中国人との国際結婚などは考えられもしませんでしたし、このときは自由

化といっても、まだ、ビルの屋上から写真は撮るなとか、他の所も写真撮影を制限されま

したが。

_0001_2

万里の長城には驚きました。でも、私たちが行ったときは、日本人客(○○農協の目印の

小旗が目につきましたが)と中国人の新婚旅行で満員状態でした。でも、これ本当に人

間が作ったんですかね。山のずっと向こう側まで続いて、見えないほどでした。


さて、近頃、三国志、水滸伝、史記など読んでいますが、中国人の駆け引き、悪く言えば

謀略は、昔から凄いですね。日本外交は、どうあがいてもかなわないでしょう。


閑話休題、この本の月(ゆえ)さん(26才)、とジンサン(40才)相変わらずの性格の違

い、国の考えのすれ違い、面白いですね。でも、月さんの作文(47頁)とか、この本のため

に書き下ろした「中年男と中国娘 2」の最後の所は、少しうるうるときました。月さんのお

父さんお母さんも出てきますが、ユニークで面白いですよ。読んで楽しい本です。読んでな

い人は是非読んでね。第3巻出たらまた買いますよgood


月さん、ものすごい美人で、性格も良いみたいですが、あの頃の中国の方、みんなスッピ

ンでしたが、確かに中国の娘さん美人が多いですね。

私もあのとき、誰か良い子を見つけて連れてくればよかったな。

(写真は「日中九州青年の船第8回」アルバムより)




2012年4月 9日 (月)

隠れ切支丹洞窟聖堂跡か?~マッド(松蔵?)が岩(伝六穴)★(雲仙市瑞穂町)

1_2

島原半島の切支丹と言えば、北有馬町、有家町、西有家町等を中心にした所が有名で、

半島の反対側、愛野町~有明町までは、あまり話題にのぼることがありません。


先日、瑞穂町誌を読んでいたところ「マッド(松蔵?)が岩。(伝六穴ともいう)という」、とい

う記事があり、穴ときけば居ても立ってもおられず。すぐ急行。場所は書いてあるのです

が、地図にも載ってないような小字名。とにかく、田代原に行く道、三叉路の杉林とのヒ

ントで、あたりをつけ、入ってみたらビンゴ。ここは、穴の上の林を抜けたらすぐに国道。


さて、近頃、山にはイノシシが多く、この間罠にかかったイノシシを見たばかりでおそるお

そる覗いたら、

2

なにやら、普通の洞窟ではなさそう。人手で彫ったことは一目瞭然。入り口は上から落ち

てくる土で、狭くなっている。

それでは穴に挿入ではなく突入。入ってみてビックリ。

3

祭壇のようなもの、小さな穴が数カ所。穴の中は私が入っても十分立てるので、170~1

80㎝程度か。左右14~15メートル程度。下の土を見ると、イノシシの足跡。

4

なにやら分かりませんが、絵みたいなのを描いた跡。自然に出来たものではなさそう。

5_2

子供が入っていたずらに描いていったのかと思ったのですが、どうにも違う感じ。道が整

備されるまでは、林の中だったはず。近頃の子供は、こんな林の中には来ないでしょう。

6

写真右の方、なにやら置けるようにきちんとした、四角の台が。

外には、人が組んだ石垣。

7 8

瑞穂町史には、切支丹との関係をにおわせて書いてありましたが、とにかく何らかの宗教

的雰囲気はぷんぷんとしていました。


消去法で考えると、面白半分、暇つぶしで作ったはずはなし。防空壕でないことは明らか。

ここ、島原半島雲仙は修験道の場所であるが、修験道は自然の岩の洞窟あたりで修業を

するもので、自分で穴を掘ってこのような場所で修業をするはずはない。

他に、このようなところで儀式をする宗教は、島原半島では聞いたことはない。だとすれ

ば、あと残るのは、禁教後のこちら方面の隠れ切支丹の聖堂だったのか。(ここの台、穴

の中にキリスト、マリア像などを飾ればまさに聖堂と言う感じでした。)

はやり、こちらの方面にも島原の乱には加わらなかったものの切支丹の影響はあったの

でしょう。


近所の人にも、この穴の存在は知っている人もおり、切支丹関係ではないかとの話であっ

たとか。また、瑞穂町町史によれば、「以前は実際に仏像か何かがあったという。」とい

う記述もありました。


正式な調査はやってないようでしたが、穴の上の土が崩れ落ちそうで、せっかくの遺跡。

調査をして保存して欲しいものです。

町村合併になり、各町に残る史跡、遺跡の調査等なおざりになっている感じが否めませ

ん。ここは、整備保存すれば、大きな観光資源ともなりうるのですが・・・




2012年4月 8日 (日)

この一曲~時代おくれ★河島英五

Photo

40才になるとき、マラソンでいえば折り返し地点で、これからゴールに向かうんだと思う

と、何とも複雑な気持ちでしたが、いまや、競技場へのゲートをくぐってもうすぐテープを切

っておしまいかと思うと、結局理想とする人間にはなれず、人生反省ばかりの今日この頃

です。


この曲が好きで、こんな男になりたいとおもっていたのですが・・・何度も聞き返しました

が、生まれ変わっても、なれませんねこんな男には。

何回か、ブログで少し触れたことがありましたが、改めて・・・・



時代おくれ

一日二杯の酒を飲み

さかなは特にこだわらず

マイクが来たなら 微笑んで

十八番を一つ 歌うだけ


妻には涙を見せないで

子供に愚痴をきかせずに

男の嘆きは ほろ酔いで

酒場の隅に置いて行く


♦目立たぬように はしゃがぬように

 似合わぬことは無理をせず

 人の心を見つめつづける

 時代遅れの男になりたい


不器用だけど しらけずに

純粋だけど 野暮じゃなく

上手なお酒を飲みながら

一年一度 酔っぱらう


昔の友には やさしくて

変わらぬ友と信じ込み

あれこれ仕事もあるくせに

自分のことは後にする


ねたまぬように あせらぬように

飾った世界に流されず

好きな誰かを思いつづける

時代おくれの男になりたい


♦くりかえし



作詞、阿久悠さん、さすがに良い歌詞を書きますね。

この中で私にもピッタリ通じる所が、「好きな誰かを思いつづける」。思いつづけているだけ

ですが・・・


国見町の淡島神社にちょっと寄って見ました、桜は散りかけでしたがまだきれい。日曜日

でもあり、花見客も結構多い。有名なミニ鳥居、くぐり抜けると安産とかlovely

P4080083 P4080078_2

本日のおやつ、ロールケーキにデコレートした、「ロールなんとか」。千々石のピュアリッツ

さんです。

P4080086 

こんなんばかり食ってちゃ、「時代おくれの男」にはなれないな。





« 2012年4月1日 - 2012年4月7日 | トップページ | 2012年4月15日 - 2012年4月21日 »

フォト
2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ