今富キリシタン墓碑群~長崎県大村市
大村まで用事があり、帰りがけ、道の標識を見ると、「今富キリシタン墓碑」の案内板が。
名前は聞いていたのですが、どうせ、急ぐ人生でもなし、ちょっと立ち寄ることに。
道は途中まで分かるのですが、途中から分かれ道になっており、ままよと、ハンドルを切っ
てしばらく行くと、ピンポーン。せっかく、国道に案内板あるなら、途中にも欲しいもの。
さて、見ると伏碑ではなく、立碑。初めて見ました。
文字がかすかに分かると思いますが、これについては、案内板を読んでいただいた方が
分かりやすいと思います。(クリックすると拡大します。)
この、墓碑の特徴は、墓碑の上の所、伏墓にすると、こちらの方が、正面になります。
「干」型をした、「カルワリ罪標十字架」が分かると思います。
「日本キリシタン墓碑総覧」での調査によると、この十字架の右側に「慶長十九年」という紀
年銘が確認されたそうです。
慶長十九年に、伏碑とし作られ、その後、明暦三年の郡崩れ(潜伏キリシタンが検挙され
た事件。)以後に改造され、立碑にしたと考えられるそうで、元来の天正四年銘「一瀬越智
相模栄正」の墓碑として建碑されたものとは考えられないそうです。ここのところ、説明版と
は違った、新説になります。
なお、調査された大石一久氏によれば、「改造後の今福第1号墓碑からは罪標十字架や
紀年銘を陰刻した小口面を頭頂部にして建て直している面から信仰弾圧に対する強い抵
抗心を読み取ることもできるが、この改造に関わった人物が一瀬家またはその関係者であ
ったことは間違いないとおもわれる。」と推察されておられます。
一瀬姓をもったキリシタン墓碑は、東彼杵郡「一瀬ゆ阿ん」。田下伏碑があるそうで、「一瀬
姓はキリシタンとの関係が濃い。」とも書かれてあります。
一番上の写真、墓碑の台石、これもキリシタン墓碑を転用した物だそうです。この墓碑の
右側に、手水鉢があるのですが、これも、伏碑を転用したものだそうです。写真を撮る
のを忘れました。
墓碑の裏には、天正十年の銘が入った六地蔵笠部があり、それまでの伝統的墓地をキリ
シタン墓地に転用した可能性が高いそうです。
この記事は、「日本キリシタン墓碑総覧・企画南島原市教育委員会:編集大石一久」から、
参考、また、引用しましたが、本文及び、特に、大石一久氏の「(全体所見)日本キリシタン
墓碑総覧ー分析と課題ー」の部分に、この墓碑に関して、詳細が書いてありますので、
興味のある方は、お読み下さい。
「日本キリシタン墓碑総覧」は長崎文献社から出版されていますが、限定200部ですから、
研究されたい方は、お早めにご入手下さい。8,400円は少々お高いですが、価格以上の
価値はあります。 (参考:引用~「日本キリシタン墓碑総覧」から)
今日は11月22日(いいふうふ~良い夫婦)の日だそうです。私の結婚式は11月12日
(いいひにけっこん~良い日に結婚)なんですが・・・良いことありませんでした・・・ポチ。
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こんにちは。
私も以前紹介しましたが、墓碑までの案内板、判り難いですよね。
ちなみにお隣東彼杵町にある墓碑は、元々からの立碑のようです。
他に川棚波佐見の墓碑も、何故か立碑です。
投稿: 高来郡司 | 2012年11月23日 (金) 06時42分
久しぶりです。
案内板は問題ですね。まあ、ほとんどの所がそうですが。地元の方が、建てられるので、当然これくらいで分かるだろうという感覚でしょう。
伏墓、立碑、いろいろ議論があるようですが、こちらにも、島原に、円頭型立碑状の「またれいな」などもあります。
ヴァリニャーノは、出来るだけ、日本の風習に順応するような方策を採っていますが、これが、立て碑のキリシタン墓碑に、影響しているという説もあるようです・・・・
とにかく、ほとんどのキリシタン墓碑が破壊されていますから、難しいですね。
投稿: sugikan | 2012年11月23日 (金) 22時28分