下針(さげばり)金作★鉄砲名人~原城の乱へ(島原市三会)
島原の乱について、読んでいると、「下針金作(さげばりきんさく)」という人物が、書かれて
いることがあります。
島原の三会(みえ)というところで、百姓をやっていたとか、猟師をやっていたとか資料によ
って、多少違いはありますが、数間離れた所に、下げた針を打ち落とす腕前。名付けて
「下針金作」。その実、「金作」とは仮の名前で、小西行長の家臣「駒木根八兵衛友房」。
関ヶ原の戦いで敗れた、「小西、豊臣」の残党は、互いに連絡をとり、豊臣家の再興を計
画していたと言われています。
島原の乱が起こると、三会村の1420名と原城に立て籠もり、鉄砲の狙い撃ちで、幕府軍
を悩ませたといいます。
写真の場所は、「下針金作屋敷跡」と言われています。場所は、愛野町からグリンロード
が終わり、がまだすロードが始まる交差点から、右に曲がり、左の一本目の道を入って行
くと写真の所に出ます。赤の矢印の所が祠があるところです。
この中に、祠があるはすなのですが・・・・
この祠は、昭和初期ある事情があって奉祀されたものだそうですが、太平洋戦争中、出
征兵士の武運を祈願して、列をなしていたそうです。(有家町郷土誌より)
また、この場所には雀も寄りつかず、飛ぶ鳥も避けて通ったと言います。そして、宝クジの
神様になっているそうです。鉄砲の名手ですから、良く当たるそうです。(新島原街道を行
く:松尾卓次著より)
さて、扉は閉まっているのですが、中をどうしても見たくて・・・回りの畑にはだれもいない
し。
とはいっても、開けたとたん、ズドンとやられてはたまらないし、一応近所に家があったの
で(祠の所有者ではありませんでしたが)、「開けてみてもいいでしょうか?」と尋ねたら、
「元通りにしたらいいんじゃない。」と言うことで、恐る恐る開けてみました。
祠の中には、なにか入っているような木箱が。さすがに、これは開けきれませんでした。
「宝くじは当たらなくて良いですから、いい女の子に当たりますように。」とお祈りをし、お賽
銭をあげて来ました。
さて、話が長くなりますが、原城の第一陣の攻め手の大将、「板倉重昌」を、この「下針金
作」が撃ち取ったという話があります。
村井昌弘著、「耶蘇天誅記」によれば、「・・・三会村の奴原が固めたる出丸の狭間より放
ちたる横矢の銃玉、左の乳の下に当たり、・・・その場に討ち死にをぞ遂げられける」。こ
の、「奴原」というのが「下針金作」でしょう。
金井俊行著、「原城耶蘇乱記録」では、「・・・重昌益々進ミ城塀ヲ攀ツ賊下針金作之ヲ狙
撃ス胸ヺ貫ラ卒ス行年五十一歳・・・」
「奴原」とか、「賊」とか表現してありますが、「島原の乱」については、多くの資料が残って
いますが、全部と言っていいほど「幕府側」の資料ですから、仕方が無いところでしょう。
なお、「耶蘇天誅記」は江戸中期、「原城耶蘇乱記」は明治25年に、書かれていますが、
「耶蘇天誅記」は、部分的には見つけましたが、この部分の原典は見つけきれなかったの
で、有家町史談会発行の「嶽南風土記」、福田八郎氏の「原城聞書覚」から、「原城耶蘇
乱記」は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーから引用しました。
そんなに良くてもなくても、いいんです。ポチとでも良い女の子に、当たりますように。
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