首塚古墳~長崎県雲仙市愛野町
愛野町のジャガイモ畑の所に、こんもりと盛り上がった墳丘があります。直径10メートル、
高さ5メートルです。地元では「首塚」と呼んで、3つの異なった説があります。
一つは、島原の乱後、キリシタン1万人の首を、三等分し、長崎の西坂、天草の富岡、そ
して、この「首塚」に埋めたという説で、地元では年配の方に聞いても、昔からそのように
聞いていたという事でした。墳丘の下、自然石に「首塚」とのみ彫ってあり、マリア様の絵
が置いてありました。この話を信じている方が今もおられるのでしょう。
一番上の所になにやら立っていますが、
「南無妙法蓮華経」の文字が、島原の乱で亡くなったキリシタンを偲ぶのなら、なにやら奇
妙な?誰が立てたかは不明です。
さて、二つめの説は、島原の乱が起こる前、半島の東側は代官が打ち殺されたり、島原
城(島原の乱は島原城ではなく、南有馬町の原城が主になります。時々誤解される方がお
られるので。)への攻撃が起こったりしています。
こちらの、千々石村では治右衛門庄屋が、一揆の参加を求められますが、愛津村(現雲
仙市愛野町)の代官へ通報し、愛津村、野井村(この両村が合併をし「愛野町」になりま
す)、山田村、守山村(合併し現雲仙市吾妻町)から、農民を集め、防戦したそうで、その
時の双方の戦死者を葬ったという説。
三つめは、古墳時代後期、6~7世紀に、この地方を支配した豪族の墳墓ではないかとい
う説。
説明版には、この3つの話が書いてありましたが、愛野町郷土誌には、古墳として扱って
あり、「内部構造は、横穴式ではなく箱式棺だろうと思うが・・・」と書いてあります。
故宮崎康平氏も「「島原半島の切支丹」で、この首塚のことについて「島原の乱の首塚と
伝えられている。実は円墳」と書いておられます。
さて、最初の説については、南島原市南有馬町の八幡神社の供養塔の碑文には「乱後幕
府は凶徒の首を三分して天草、南島原、長崎の3カ所に埋葬した」とあるそうです。(島原
半島の歴史~監修・松尾卓次)
また、愛野郷土誌にも「他の資料によると三分の場所は、有馬、長崎と天草となっており、
また、これらの地には供養碑が建っていた」と書いてありますので、キリシタンの首を埋め
たという説は誤りでしょう。
現在は、古墳説が有力なようですが、ただ、気になることが一つ。あちこち古墳を見ている
と、埋葬された副葬品を狙った盗掘がかなり見受けらますが、このように目立った古墳で
ありながら、盗掘の跡が無いということは、どうも「?」でした。
私見ですが、この墳丘は、古墳時代のものではなく、第2の説が本当のことであり、島原
の乱に結びついて、第1の説になっていったのではないでしょうか?ですから、だれも手を
着けられなかったのでは・・・
掘れば、すぐにでも分かるのですが、なかなか、おっかなくて手が出ないでしょう。謎は謎
のままの方が良いのかも。
なお、このすぐ近くに「原口番所址」と「龍馬が歩いた道」の標識があります。ここの番所
を、勝海舟、坂本龍馬一行が通ったことでしょう。
参考:「愛野町郷土誌」「増補改訂愛野町郷土誌」「島原半島の歴史」「千々石町郷土誌」
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富士塚や経塚・後世の墓地などに古墳跡のプチ残丘が再利用される事はよくある事なので、ここもプチ残丘がおっしゃられた一揆軍を北目一揆が迎え撃った時の一揆軍の死者の塚OR一揆軍に殺られた代官の首塚OR一揆軍の首塚ならぬ胴塚あたりに利用されたのやも知れませんね
投稿: | 2018年1月 4日 (木) 19時46分
コメントありがとうございます。
さて、掘ってみれば、すぐにでも分かるのですが・・・
書き忘れたことがあったので、今日、1月5日分に少しばかり付け加えております。
投稿: sugikan | 2018年1月 5日 (金) 22時46分