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2012年9月 5日 (水)

首塚古墳~長崎県雲仙市愛野町

P8290023

愛野町のジャガイモ畑の所に、こんもりと盛り上がった墳丘があります。直径10メートル、

高さ5メートルです。地元では「首塚」と呼んで、3つの異なった説があります。


一つは、島原の乱後、キリシタン1万人の首を、三等分し、長崎の西坂、天草の富岡、そ

して、この「首塚」に埋めたという説で、地元では年配の方に聞いても、昔からそのように

聞いていたという事でした。墳丘の下、自然石に「首塚」とのみ彫ってあり、マリア様の絵

が置いてありました。この話を信じている方が今もおられるのでしょう。

P8290015

一番上の所になにやら立っていますが、

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「南無妙法蓮華経」の文字が、島原の乱で亡くなったキリシタンを偲ぶのなら、なにやら奇

妙な?誰が立てたかは不明です。


さて、二つめの説は、島原の乱が起こる前、半島の東側は代官が打ち殺されたり、島原

城(島原の乱は島原城ではなく、南有馬町の原城が主になります。時々誤解される方がお

られるので。)への攻撃が起こったりしています。


こちらの、千々石村では治右衛門庄屋が、一揆の参加を求められますが、愛津村(現雲

仙市愛野町)の代官へ通報し、愛津村、野井村(この両村が合併をし「愛野町」になりま

す)、山田村、守山村(合併し現雲仙市吾妻町)から、農民を集め、防戦したそうで、その

時の双方の戦死者を葬ったという説。


三つめは、古墳時代後期、6~7世紀に、この地方を支配した豪族の墳墓ではないかとい

う説。

説明版には、この3つの話が書いてありましたが、愛野町郷土誌には、古墳として扱って

あり、「内部構造は、横穴式ではなく箱式棺だろうと思うが・・・」と書いてあります。


故宮崎康平氏も「「島原半島の切支丹」で、この首塚のことについて「島原の乱の首塚と

伝えられている。実は円墳」と書いておられます。


さて、最初の説については、南島原市南有馬町の八幡神社の供養塔の碑文には「乱後幕

府は凶徒の首を三分して天草、南島原、長崎の3カ所に埋葬した」とあるそうです。(島原

半島の歴史~監修・松尾卓次)


また、愛野郷土誌にも「他の資料によると三分の場所は、有馬、長崎と天草となっており、

また、これらの地には供養碑が建っていた」と書いてありますので、キリシタンの首を埋め

たという説は誤りでしょう。


現在は、古墳説が有力なようですが、ただ、気になることが一つ。あちこち古墳を見ている

と、埋葬された副葬品を狙った盗掘がかなり見受けらますが、このように目立った古墳で

ありながら、盗掘の跡が無いということは、どうも「?」でした。


私見ですが、この墳丘は、古墳時代のものではなく、第2の説が本当のことであり、島原

の乱に結びついて、第1の説になっていったのではないでしょうか?ですから、だれも手を

着けられなかったのでは・・・


掘れば、すぐにでも分かるのですが、なかなか、おっかなくて手が出ないでしょう。謎は謎

のままの方が良いのかも。


なお、このすぐ近くに「原口番所址」と「龍馬が歩いた道」の標識があります。ここの番所

を、勝海舟、坂本龍馬一行が通ったことでしょう。


参考:「愛野町郷土誌」「増補改訂愛野町郷土誌」「島原半島の歴史」「千々石町郷土誌」

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