島原城の門の行方~長崎県雲仙市小浜町
湯の町小浜と切っても切れないのが、湯大夫本多家です。上の写真、現在は、市の施設と
して「小浜歴史資料館」になっていますが、昔は「湯大夫本多家」の屋敷です。
慶長19年、初代の本多親能(ちかよし)氏と、同族の島田氏が共に小浜村に来て、温泉場
の管理を始めたそうです。
本多親能氏は、城主(島原藩、松平忠房公)に取り締まりを命ぜられていたそうですが、城
主の許しを得、長男に庄屋職を、次男の親次氏を湯大夫としたそうです。
小浜温泉は今でこそ、交通便利なところですが、以前書いた雲仙鐵道、バスの運行が無
かった時代は、陸路では不便なところ、長崎の茂木港から船に乗って来ていたような所で
す。
10代目の本多西男氏が、海岸の埋め立てなどを行い、今日の小浜町が出来たわけで、
昔の方と話をすると、雲仙鐵道についても、「本多さんの力じゃもん(本多氏の力によるとこ
ろだ)」と言う話を良く聞きます。
下の写真が、昔の小浜の風景です。
(長崎大学附属図書館・古写真データーベースより)
さて、話は変わって島原城のことですが、島原城は元和4年から、松倉重政が築いた城
で、島原一揆で攻められながらも耐え、寛政の地変でも倒壊を逃れることが出来たのです
が、明治の御一新。明治3年に島原城は国有化、また、佐賀での江藤新平による反乱の
影響、明治6年、政府による「全国城郭在廃の処分並びに営地等撰定法」、いわゆる「廢
城令」等で、立木一本に至まで民間に払い下げられたそうです。
島原城には、大手門、先魁門、田町門、北門、桜門、東虎口(こぐち)門、西虎口の七つの
門があったそうです。なお、この東虎口(こぐち)門、西虎口は、葬列のために使う門で、市
内の快光院、江東寺の門になっているそうです。
残る門のどれかになりますが、明治4年、そのうちの一つを本多家が買い受け、自宅の門
にしたそうです。門柱が大きすぎ少し作り替えてあるそうです。
天守閣は、明治7年、400円で払い下げられたそうですが、早く分かっていれば・・・
この門は、100円で買い受け、解体し船で運んだそうです。当時は米一升で7銭だったそ
うです。今買えばいくらになるか、あとは計算して下さい。
いつもは、開いているのですが、今日は休館で門が閉めてあり、ゆっくりと見られました。
これが、島原城の何百年前の門かと思うと感動ものでした。
裏側です。休館日で入れなかったのですが、忍法「すり抜けの術」で・・・
(参考:「小浜町史談」・「島原城ネットサイト」)
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