山領(やまりょう)その2~長崎県雲仙市小浜町山領
山領の集落から坂道を登り、この前紹介した「山ん神様」「天狗天使像(地元では金比羅さ
ん)」の手前の方に、「這子」という所があり、そこから山に登る急坂を登ったところに「婆泣
き」という地名があり、鍋に似た形から「鍋」といわれているそうですが、そこから急坂をさら
に登り、藪の中を行くと大きな石があり、そこに穴があり「鍋ノ穴」と言い、詰めれば50名
ほど入るそうです。
ここには島原の乱を避け、老人達が隠れていたところです。ここまでたどり着いた婆さん
達が、背中から幼児をおろし、幼児はそこらを這い回ったので「這子」。それを見ながら、
先々のことを考え、無心に這い回っている孫達を見ながら、婆さんたちが泣いたので「婆
泣き」。
実は、ここまで登って見ようと思っていて、入り口までは見つけたのですが、
ご覧の通り、イノシシ除けの柵が山道全面張ってあり、道も荒れ放題で、一人では無理と
いうことで断念しました。
なお、この島原の乱を避けて避難したところは他に「富津の四郎穴」「鬢串(びんぐし)の与
平納戸」。残念ながら調べて見ると、ここも山の中で、荒れ果ていて入れないとの事でし
た。3,4人いればなんとかなるのでしょうが・・・海の方では崖に自然浸食した穴に避難を
したということです。
こうして見ると、小浜だけでも避難したところが3~4カ所。よく、島原の乱で全滅した村も
あるということが言われますが、雲仙の山深く逃げ込めば分からない。郷土史家の人と話
をしていると全滅はあり得ないだろうという話になります。宮崎康平氏も「島原半島の切支
丹」で同様のことを書いておられます。
こうして残った村民が38戸、男68人、女73人、牛2頭、馬9頭といいます。(小浜史談よ
り)
ここの地区の途中に石造物がありますが、これはこのあたりに散在していたものを集めた
ものだそうですが、右から2番、道祖神の「小夜姫」。この像珍しいらしく、某大学からも調
査に来たそうです。ここのすぐ横にもう一つ顕彰碑が建っています。
左が「小夜姫」。笠を右手に持った可愛い像です。場所によっては「さやごぜん」「さおごぜ
ん」「さようひめ」、場所によって多少の違いがありますが、松浦の「作用姫伝説」が形を変
えて伝わって来たみたいです。
この「小夜姫」については、物語があるのですが、ちょっと差し障りがあるところがあるので
省略します。
右の顕彰碑が「五左衛門の碑」。島原の乱後、荒廃した田畑を拡大するにつけ水が足りな
く、雲仙の加持川(別所ダムはこの川を塞いで作ったものです。)から水を引こうと思ったの
ですが、加持川は千々石の川に繋がり、千々石にとっても命の水。水争いが絶えなかった
そうです。
そこで、この五左衛門さんが交渉にいって、話し合いで決着をつけたそうです、と簡単な紹
介が本に書いてありましたが、地元の人に聞くと、千々石側がウンといわず、一計を案じ、
酒をしこたま持って行き、酒の飲み比べで勝ったら水を分けてくれと言うことで、飲み比べ
て見事勝ったそうです。川の水を7割と3割に分け、山領に3割流すようになったそうです。
はやり、本で読むだけで無く、地元の人に話を聞くのが面白いですね。
さて、気になるでしょうが一番上の写真。「這子」「婆泣」と「天狗天使」の途中に分かれ道
があり、
黄色の方向が「天狗天使像」に行く道ですが、、右の赤線の方向に行くと、突き当たりが
市の上水道と思われる建物があり、その手前にある観音様です。まったく目につかない、
人里離れたところに何のために。はじめて見たときはビックリしました。
観音様の赤い四角の所、銘版がはめ込まれていたはずですが、はがしてありました。途中
で誰か聞こうと思ったのですが、誰にも出会わなくてまったくの謎でした。
氏神様として、若宮神社がありますが、一番古い灯籠が「文化九年」とありますから、それ
以前の神社でしょうが
普通奉納するといえば、鳥居か狛犬か灯籠でしょうが、どういうわけか、どこから見ても立
派な牛が。
「明治」という字と「出征」という字が、そして人名が彫ってありましたから、日清か日露戦争
の時でしょうが珍しいものでした。いわれがあるんでしょうが、またもや誰もいなくて聞かれ
ませんでした。
山領という所、色んな意味で興味のあるところでした。山の方は、イノシシと蛇の季節なの
で、又寒くなったら。(参考:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド」)
山領の項:終了
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