平松(へいまつ)かぶり★千々石騒動~雲仙市千々石町
千々石にしか通じない言葉があります。「平松かぶり」。残念ながら若い人は段々知らない
人も増えつつあります。
時は幕末、弘化四年。江戸時代、農民は重税に苦しみ、加えて不作があり、困窮した生
活。
11月頃から小作人が、各名の乙名宅等へ小作の引き下げを相談。12月17日の夜、上
の写真の専照寺へ500~600名(橘家々記によれば、「弘化四年十二月十七日夜四ツ
頃より、専照寺へ作得一件につき小前(注)共大勢相集り・・・)農民が集まり談合。
ある程度の要求は受け入れられたが、他の項は藩へ持ち越され落着かと思われるが、農
民の無届け談合、しかも島原は「原城の乱」が起こったところ。
島原藩から役人が出向き、多くの者が捕らえられ、島原まで送られたが誰が首謀者が分
からず、小倉(おぐら)名の平松が自分一人で罪をかぶり、本当の首謀者は誰か分からな
いまま獄門にして解決。
これから、千々石では何事も一人で事を負うこと(かぶること)を「平松かぶり」と言うように
なり、宴会などでその費用を一人で負担する場合にも使われるそうになったそうです。
と、ここまでくれば義侠心にとんだ話なのですが、平成54度版千々石郷土誌には「平松
は決断力の乏しい、ぐづぐづした性格の人で外の百姓におしたてられて、それに反対する
ことが出来なかった。」とあり、さらに、昭和43年出版の「千々石町誌」にも、「小倉名の有
志のなかでは一人で『かぶって』犠牲的精神を発揮した、平松氏の顕彰碑を建てようと計
画したこともある。それは昭和30年ごろもその案が持ち上がったが、みずから進んで騒
擾罪を一人で被ったのでなく、あまりにも無言で鈍重で正直であったため、他の人からな
すりつけられたのであるから顕彰には価しないとて、とりやめた。」との記述もあり、可愛そ
うな「平松」さんでした。
なお、平松は小倉名のKという所に住んでいたと言うことで、私の家の近くで、近所の人を
見るとなんとなく子孫ではないかと・・・
なお、下の写真は小倉名の古い墓地ですが、ひょっとしたたここに眠っているのかな。
(注:小前とは本百姓ではあるが特別の権利・家格を持たない百姓、また小作人層。大辞
林より)
参考:「千々石町郷土誌」「千々石町史」「平成54版千々石町郷土史」「島原半島の歴史」
今日のおやつ:
いただき物の水ようかん。
あまり見事なので、食べきれず大事にとっておいております。皆さんは見るだけ。
ポチしてね。
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