阿比留文字(神代文字)の祠~雲仙市吾妻町
いろいろ郷土誌を読んでいると興味ある事が書いてあり、「吾妻町史」に、「阿母山(あぼや
ま)の堤には、峯武社掌(旧制の神職の名)による・・・・美津能加美と刻んだ阿比留文字が
建てられている。」と書かれており、ただし、この峯武社掌は大塚古墳(旧守山村・現吾妻
町)の報告書を記述している方でもあり、あまり古いものではないなと思いながらも、「阿比
留文字」は「神代文字」(じんだいもじ・かみよもじ)の一種であり、漢字が伝来する以前の
日本で使われた文字の一種。一度は見てみようと、梅雨の晴れ間をぬって。
ただ、この神代文字については、古くから賛否の議論がありますが、賀茂真淵、本居宣長
などと比べられる平田篤胤は肯定論者の一人です。ここらあたりは、ネットでいろいろ書い
てありますので各自、自習ということで。
なお、阿比留文字は「あびるもじ」「あひるもじ」の標記がありますが、対馬国の卜部氏・阿
比留氏に伝わっているということであり、阿比留という氏名は対馬では「あびる」と読み、
「あびるもじ」の読みが正しいと思います。
とにかく実物を見てみようと行ったのですが、場所がまったく分からなく、丁度、義兄が吾
妻町にいるので話をして、郷土史の写真を見せると、「俺の妹のとこたいと」。と言うこと
で、案内をしてもらいましたが
赤の四角の所で、まあ、こんな所は知った者しか分からない。
この祠の中に上に書いたような文字が彫ってありました。吾妻郷土史によると「美津能加
美」と読めるそうです。見るとハングル文字に似ており、阿比留文字はハングル文字との
関係もあるとの説もあり、確かに対馬の阿比留氏に伝わっているものなら、対馬は古くか
ら韓国との交流もあり考えられることでしょう。(ただし、ハングル文字は1446年に李氏朝
鮮4代国王の世宗が、「訓民正音」の名で公布)。阿比留文字がハングル文字に影響を与
えたという方もありますが・・・
ネットで調べるとこの文字の読み方が載っているホームページがありますから、興味ある
方は調べて下さい。
ただ、この祠の横を見ると
「平成17年5月吉日復元」の文字、どうも理由が分からないので、詳しい方を訪問。この
「復元」については、ここ一体は竹林で竹に持ち上げられ、傾いていたので屋根の部分を
復元したとのこと。中身はそのままとのことでした。
「美津能加美」については、ここの下に堤があり水がたまるようにしてあり、その関係で「み
つのかみ」と彫ったのかと思っていたら、ここの堤で小さい子が溺れ死んだことがあり、そ
れを弔うために建てられたものだそうです。
なお、ここは今は竹藪になっていますが、ここの下の堤の所に土俵があり、この祠の所ま
で観客用の段が作ってあり、昔は賑わったいたそうです。ここに二つ灯籠があったそうです
が、いつの間にか無くなってしまったそうです。
吾妻郷土史には、峯家は一乗院系感応院の修験道であり、修験道の秘字が伝えられた
のではないかと記述されています。しかし、峯武社掌がどうして阿比留文字をここに使った
のかは謎でありました。(参考:吾妻町史)
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コメント
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貴重な神代文字小祠の情報を記していただいて、神代文字の流布について調べているので、参考となりました。ついては私の日記でこの小祠を紹介したいので、写真を1部転載させていただいてもよいでしょうか。
投稿: 中村和裕 | 2012年9月30日 (日) 13時10分
コメントありがとうございます。
使って頂いて結構です。
ただ、吾妻町郷土誌、現場を見た感じ、関係者の話を聞くと、そんなに昔ではなく、昭和時代のものだと思われます。
ただ、峯神主さんがどうして、あの文字を使ったかは謎のままです。
阿比留文字については、論議が多いところですね。
投稿: sugikan | 2012年9月30日 (日) 22時58分