日野江城★有馬晴信とキリシタン
昨日、日野江城のことで少し忘れていたので。
この写真は発掘調査時の航空写真です。黄色で囲んだ所が昨日の階段遺構です。赤の
線の所に川が流れていますが、昔は入り江もかなり陸地まで入り込んでいて、この川も大
きいものだったといいます。赤線のもう少し下の所に駐車場があり、以前ここも調査したと
ころ、船を繋ぐ杭の跡があった記憶がありますから、南蛮貿易のおり、こちらの方から荷を
揚げ城へ運んだのでしょう。
階段遺構の上の方から金箔瓦が出土しています。左側の写真は説明版に印刷されたもの
を撮ってきたもの、右の写真は多分金箔瓦が出土した当時の写真だった記憶があります。
(島原半島の歴史より~松尾卓次監修)
有馬晴信の像です。この像は有馬家の菩提寺である台雲寺に納められていますが、レプ
リカが、北有馬町のピロティ文化センターに置いてあります。
さて、島原半島は雲仙の修験道関係、キリシタン関係などあり、私も勉強中で下記の事に
ついては誤りがあるかも知れないので、訂正があったらコメント欄で指摘をしてください。
有馬晴信は一般的には「キリシタン大名」として有名ですが、当初はそう単純な物では無
く、「義貞(注:晴信の父、洗礼名ドン・アンデレ)が死去すると、その有馬家を継いだ晴信
は、仏僧の反抗を背景に多くのキリシタンを棄教させ、教会を焼却するとともに領内にある
十字架を切り捨てたという。」(修験道とキリシタン~根井浄著)
しかしながら、当時は佐賀の龍造寺が領地拡大を狙い、島原半島に進出し、晴信はイエズ
ス会から食料、武器の援助を受けているようで、「毎日、修道院に喜捨を求めてくるすべて
の貧者に施しを与えたほか・・・またこの目的のために定航船から十分仕入れておいた鉛
と硝石を提供した・・・・」(フロイス:日本史 第39章)。鉛と硝石というと、鉄砲に使うもので
しょう。
このため、洗礼を受けたのですが、「こうした状態に追い込まれた有馬殿は、この上は教
団と団結し・・・彼はキリシタンにならねばなるまいと考え、大急ぎで(巡察)師に洗礼を授け
てくれるように通知した。」(フロイス:日本史 第38章)
この、洗礼には側室の問題がからみ、「有馬殿は領内のもっとも重立った身分のある若い
女性を邸にかこって・・・・」と言うことで(キリシタンは一夫一妻ですから)、洗礼の予定日
が10日以上延びたようです。
さて、戦いは有馬晴信側が勝利するのですが、「既述のように、もしこのたびの戦いで(巡
察)師からの援助がなかったならば、疑いも無く(有馬殿)が敗北していたことは万人が等
しく認めることであった。」(同)
このため、見返りとしてフロイスが「日本史」に「悪魔」という表現している、キリスト教の
大敵である仏教関係に対し、晴信は、「家臣達に(たいして)(巡察)師に謝意を表して領
内から偶像を駆逐すべしと伝達した。・・・大小合わせて四十を越える神仏の社寺がことご
とく破壊された。」(同:39章)
この中には雲仙の瀬戸原にある300坊、別所にある700坊あった寺院が破壊されたもの
と思われます。(有家郷土誌:修験道とキリシタン)
有家町にある「四面宮遺跡苑」です。この塔碑はそのとき、破壊、投棄されたものを復元し
た物ですが、組み合わせが分からず大体の所を組み合わせたものです。このほかまだ廃
棄された塔碑がたくさん残っています。
「有馬の宝福寺、感徳院、訪福院、遍照院、・・・・・千々岩(千々石の誤り)の大泉寺・・・な
などもその破壊に遭遇したことであろう。」(修験道とキリスト教)。
上の写真が、千々石の大泉寺跡ですが、この付近家が建てられていますから本来はもっ
と広かったのでしょう。近くの家には、投棄されていた宝篋印塔でしょう。
この後、いろいろありますが、書いていけば切りが無いので又機会を見て。
最後は、晴信は岡本大八事件に巻き込まれ、甲斐国初鹿野に追放され、死罪になりまし
たが、武士の誉れである切腹は自殺になるので、自分はキリシタンであると言うことで、家
臣に首を切り落とさせます(異論も有り)。この頃には本当のキリシタンとして生きていたの
でしょう。
フロイスの日本史は面白いですよ。是非読んで見てください。
ポチ、又お願いね。
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コメント
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フロイスの「日本史」面白いですね。日本人の書いた古文書より現代の我々に近い感覚で読めますね。発掘調査の成果、いつもながら充実してます。続編楽しみにしています。
投稿: ナツメの10ちゃん | 2012年7月 3日 (火) 13時54分
いつもコメントありがとうございます。
「日本史」は確かに面白いですね。キリシタン、日本史の基礎資料としても、読み物としても役に立ちます。
日野江城、実際に階段遺構に梵字が入った塔碑なども見ました。写真に撮っておけば良かったのですが、あの頃はあまり興味が無く・・・・
発掘には、数年かかると思いますが、時々行って見てくるつもりです。
投稿: sugikan | 2012年7月 3日 (火) 21時38分