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2012年6月

2012年6月30日 (土)

「形代(かたしろ)流し」★橘神社&「グリーンテラス雲仙」~雲仙市千々石町・雲仙

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6月9日に橘神社の「形代流し」(→こちらをクリック)のことを書きましたが、今日は一年に

2回(6月と12月の晦日の日)の大祓いの日。それに合わせて「形代流し」がありました。

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この人形(ひとがた)に名前などを書き、人形を撫で3度息を吹きかけて、罪、穢れ、災いを

人形に移し、お祓いをし川などに流すというものです。神社に総代さんがあつまり、人形に

お祓いをし、その後、千々石川に流しました。もちろん私のも入っています。「かみさんが、

私に優しくしてくれますように。」と書いてみましたが・・・・


ところで、玉串奉奠(たまぐしほうてん)の時、拝殿の外から私が写真を撮っていたのです

が、神主さんが、私の名前(ちょっと知っていたので)を呼ばれ急に拝殿へ。「玉串」をと言

うことで。でも、ちゃんと以前、神社での作法を調べてブログに書いていたので、慌わてる

こともなく、私のブログを読んでいただいている皆様の幸せを祈願してきました。

何事も勉強しておくべきですね。


ところで、「形代流し」、川の中を、人形がゆったりと流れる様子を写真に撮ろうと思ったの

ですが、梅雨で川の流れが速く、情緒もへったくれも無く、あっという間に流れ去りました。

でも、お願いをされた皆さんが、新に幸せな日々を送くれる良いですね。


さて、今日は朝から用事で出かけ、昼頃ちょうど雲仙へ。どこか食べるところを探している

と、最近まで工事をしていたレストランが出来ていたので昼食へ。「お山のカフェレストラン

・グリーンテラス雲仙」」さん。雲仙の道路添いですぐに分かります。

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シンプルで落ち着いた雰囲気。いつものように一番豪華な本日のお薦めランチ「ジャポネ

味ソースのステーキ」。スープ、ワンプレートランチ、飲み物付きで680円也。


お味ですか?ここ、非常に可愛い子がいて、そちらばかり見ていたので、よく分かりません

でした。また、行くつもりです。可愛い子ちゃんを見に。


皆さんの幸せを祈願してきたので、ご褒美のポチよ。

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2012年6月29日 (金)

山武士神社の謎、そして、これは何?~南島原市北有馬町

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今年の5月16日に「山武士神社とは?~日野江城麓」という記事を書きましたが、多少の

事が分かりましたので。(5月16日の記事はこちらをクリック)


これには2つの謎がありました。一つは一番左の石碑に「山武士神社」と書いてあること。

「山武士」とは何か。もう一つの謎は真ん中の祠の扉の裏に千々石庄屋の名前が、「千々

石里正 宮崎九郎右衛門延高造立」と彫ってあり、なぜ千々石の庄屋がここに祠を建てた

かでした。


一つ目の謎はヒントは「日本史」を書いたルイス・フロイスの書簡でした。「1583年・口之

津発・バードレ・ルイス・フロイス書簡」、口之津は日野江城がある北有馬とは近くです。


この書簡の中で、「日本には十三の異なった宗派のあることはすでに承知せられたと信

ずるが、このほかに第二位のものがあって、その一つは山伏Yamabuxis,すなわち山の武

Soldados de serra と称するものである。」この事から、「山武士神社=山伏神社」である

事が伺えると思います。


なお、当時の山伏についてフロイスは、「彼等の通常の勤めは(彼等の言うところによれ

ば)悪魔を人体より追い出すこと、未来を予言すること、シガノと同じく手によって人生を観

ること、悪魔を呼び、健康、長寿及び富貴のため護符を売り、また妖術及び魔術を行って

生活をたてることである。彼等は道路において諸人の払う税を払わぬ特権を有し、また道

を歩いて都市及び村落に着く前に、腰に携ふる大きな貝を吹いて到着を知らせ、彼等を

信ずる者が勤めを求むる便を図る。彼等が悪魔の召使いであり恐ろしき人であることは容

貌にあらわれている。」


これを読むと当時の山伏が、ある程度の特権を持ち、フロイスがいかに嫌悪しているか分

かると思います。


さて、第二の謎、千々石の宮崎庄屋の件ですが、これには地元の郷土家が子孫を訪ねた

ところ、当時はS市に在住。古文書等は処分をしたということでした。S市からN市に移つら

れたそうですが、居所不明だそうです。残念ながら、第二の謎は解けませんでした。


さて、北有馬に来たついでに不思議なのもが、何に見えますか?

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回りの状況を見ると

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こんな感じです。


説明版があるのですが、これがボロボロで、「隠れキリシタン墓碑 青面金剛」と書いて

あり、「地元の人は(不明)呼んでいる 真言密教(不明) 守護の仏神と言(不明) 本碑は

聖母マリ(不明) 隠れ(不明) 墓碑ではないかとして 切支丹研究家の注目を集めている 

特異な碑で(不明) 明和7年に建立されている (不明)成十八年三月 北有馬町観光協

会」ということです。

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顔には何か文字らしきものが彫ってあるのですが、読めません。

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横と後から見た写真ですが、一枚岩からなっていることが分かります。イエスを抱くマリア

と見る人もいますが、なんなんでしょう?隠れ切支丹の遺跡なのでしょうか?とにかく不思

議な感じがする石碑です。この小さなのがこの地域にあと2,3あると聞きましたが、また

時間をゆっくりとって見にいきましょう。

(参考:「修験道とキリシタン~根井浄著)


今日のおやつ:

いつものピュアリッツさんの「はちみつのスペシャルケーキ」。

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健康診断が近いので、今日を最後として「おやつ」はしばらく辛抱します。


健康診断が心配なひとは、無事なようにおまじないのポチよ。

 

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2012年6月28日 (木)

日野江城★有馬晴信とキリシタン

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昨日、日野江城のことで少し忘れていたので。


この写真は発掘調査時の航空写真です。黄色で囲んだ所が昨日の階段遺構です。赤の

線の所に川が流れていますが、昔は入り江もかなり陸地まで入り込んでいて、この川も大

きいものだったといいます。赤線のもう少し下の所に駐車場があり、以前ここも調査したと

ころ、船を繋ぐ杭の跡があった記憶がありますから、南蛮貿易のおり、こちらの方から荷を

揚げ城へ運んだのでしょう。

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階段遺構の上の方から金箔瓦が出土しています。左側の写真は説明版に印刷されたもの

を撮ってきたもの、右の写真は多分金箔瓦が出土した当時の写真だった記憶があります。

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         (島原半島の歴史より~松尾卓次監修)

有馬晴信の像です。この像は有馬家の菩提寺である台雲寺に納められていますが、レプ

リカが、北有馬町のピロティ文化センターに置いてあります。


さて、島原半島は雲仙の修験道関係、キリシタン関係などあり、私も勉強中で下記の事に

ついては誤りがあるかも知れないので、訂正があったらコメント欄で指摘をしてください。


有馬晴信は一般的には「キリシタン大名」として有名ですが、当初はそう単純な物では無

く、「義貞(注:晴信の父、洗礼名ドン・アンデレ)が死去すると、その有馬家を継いだ晴信

は、仏僧の反抗を背景に多くのキリシタンを棄教させ、教会を焼却するとともに領内にある

十字架を切り捨てたという。」(修験道とキリシタン~根井浄著)


しかしながら、当時は佐賀の龍造寺が領地拡大を狙い、島原半島に進出し、晴信はイエズ

ス会から食料、武器の援助を受けているようで、「毎日、修道院に喜捨を求めてくるすべて

の貧者に施しを与えたほか・・・またこの目的のために定航船から十分仕入れておいた鉛

と硝石を提供した・・・・」(フロイス:日本史 第39章)。鉛と硝石というと、鉄砲に使うもので

しょう。


このため、洗礼を受けたのですが、「こうした状態に追い込まれた有馬殿は、この上は教

団と団結し・・・彼はキリシタンにならねばなるまいと考え、大急ぎで(巡察)師に洗礼を授け

てくれるように通知した。」(フロイス:日本史 第38章)


この、洗礼には側室の問題がからみ、「有馬殿は領内のもっとも重立った身分のある若い

女性を邸にかこって・・・・」と言うことで(キリシタンは一夫一妻ですから)、洗礼の予定日

が10日以上延びたようです。


さて、戦いは有馬晴信側が勝利するのですが、「既述のように、もしこのたびの戦いで(巡

察)師からの援助がなかったならば、疑いも無く(有馬殿)が敗北していたことは万人が等

しく認めることであった。」(同)


このため、見返りとしてフロイスが「日本史」に「悪魔」という表現している、キリスト教の

大敵である仏教関係に対し、晴信は、「家臣達に(たいして)(巡察)師に謝意を表して領

内から偶像を駆逐すべしと伝達した。・・・大小合わせて四十を越える神仏の社寺がことご

とく破壊された。」(同:39章)


この中には雲仙の瀬戸原にある300坊、別所にある700坊あった寺院が破壊されたもの

と思われます。(有家郷土誌:修験道とキリシタン)

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有家町にある「四面宮遺跡苑」です。この塔碑はそのとき、破壊、投棄されたものを復元し

た物ですが、組み合わせが分からず大体の所を組み合わせたものです。このほかまだ廃

棄された塔碑がたくさん残っています。

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「有馬の宝福寺、感徳院、訪福院、遍照院、・・・・・千々岩(千々石の誤り)の大泉寺・・・な

などもその破壊に遭遇したことであろう。」(修験道とキリスト教)。


上の写真が、千々石の大泉寺跡ですが、この付近家が建てられていますから本来はもっ

と広かったのでしょう。近くの家には、投棄されていた宝篋印塔でしょう。


この後、いろいろありますが、書いていけば切りが無いので又機会を見て。


最後は、晴信は岡本大八事件に巻き込まれ、甲斐国初鹿野に追放され、死罪になりまし

たが、武士の誉れである切腹は自殺になるので、自分はキリシタンであると言うことで、家

臣に首を切り落とさせます(異論も有り)。この頃には本当のキリシタンとして生きていたの

でしょう。


フロイスの日本史は面白いですよ。是非読んで見てください。


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2012年6月27日 (水)

日野江城跡階段遺構~南島原市北有馬町

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平成10年度第4次日野江城跡発掘調査で、出土された階段遺構と外来系の技術で構築

された石垣遺構です。


今日の新聞に「南島原市 世界遺産へ整備着手」「日野江城跡 歴史学習の拠点に」との

事で記事が出ていました。今まで十分な整備がなされてないため、原城跡と共に歴史学習

の拠点に位置付け、整備をし、今月から階段遺構の状況の調査に着手、遺構の復元や石

垣の改修等をするそうです。

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この階段遺構が発掘されたとき、このまま見学をさせることが出来ないかと言うことで議論

がありましたが、そのまま置いておくと風化するばかりで、今は埋め戻し、下の写真の通り

です。

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多分来られた方も拍子抜けするでしょうが、整備するとなるとこの階段遺構が中心。


この階段遺は幅5.5メートル、高さ3,3メートル、22段の階段ですが、2つの特徴があり

ます。一つは階段の所に仏教関係の五輪塔等を転用し階段に使っている事です。この遺

構はキリシタン大名有馬晴信時代のものとといわれ、いわば仏式の墓を踏まなければ

入城出来ない事になるのです。

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当時調査した実測図に合わせ、五輪塔、宝篋印塔が使われている所に、赤印をつけてみ

ました。階段が崩れているところ、階段の上の方が写真では確認出来ず、実際はもっと多

かったと思います。それまでの墓である、五輪塔、宝篋印塔がいかに多く使われているか

分かると思います。


もう一つの特徴は黄色の印をつけておきましたが、この石垣はノミ等で整形した加工石を

積み上げた布積みと呼ばれる技法で、さらに、大きさの違う切石をパネル状に組み合わ

せる技術は当時の日本には存在しない外来の技法です。南蛮貿易に力を入れていた晴

信の影響だと思われます。


今まで、原城の影に隠れるような日野江城でしたが、整備により日が当たるようになると

原城と共に脚光を浴びるようになるでしょう。


なお、今月から状況調査だそうですから、発掘まではまだ時間がかかるでしょうし、発掘が

終わったら現地説明があると思いますから、今から楽しみですね。

(参考:日野江城説明版・長崎新聞 )


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2012年6月26日 (火)

チン釣り石~雲仙市千々石町

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千々石川の中に、カッパが座った大きな石があります。場所は千々石の温泉神社のすぐ

横です。小浜町雲仙の「温泉神社」と関係があり、由緒ある神社です。

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この石は「チン釣り石」といいます。「チン」といっても「チン○コ」とは関係ありません。標準

語で言えば「チヌ(黒鯛)釣り石」です。

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チヌというと海の魚ですから、川で釣れるはずはないのですが、信じられないことですが、

昔はここらあたりまで海岸であったそうです。


郷土史家の方と話をしていたら、本来はこの石は「チン釣り石」ではなく、もっと大きな石が

この橋の所にあったそうです。この橋は昔は無かったそうですが、川の拡幅と橋を架けた

ため、その石は撤去してしまったそうです。その工事を請け負った会社の社長が、後年こ

の石の上にカッパの像と説明碑を設置したそうです。

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昔は橋がなかったので、飛び石で川を渡っていたそうです。この川の上流に何カ所か見受

けられます。

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謂われについては、昔、四面宮(現温泉神社)が千々石に鎮座するにあたり、お祝いの魚

をこの辺で釣っていたところ、魚が釣れず、その時、一組の老夫婦が、「鯛は釣れたなー」

と言いながら、大石の上に座って、大きなチヌを次々と釣り上げ、「お四面様へのお供え

と、お祝いの酒肴に」と言うことで立ち去ったのですが、その後ろ姿がカッパに似ていたそ

うです。と言うことででカッパがここに座っています。


その他、2,3のバリエーションがあるのですが、説明の碑があるのでそれを基に書いてみ

ました。この、カッパさんと説明碑は平成16年、比較的新しく設置されたものです。


先ほどの郷土史家の方は、小学校の時遠足に来たときに、少し違ったバリエーションです

が、学校の先生から聞かされたそうです。

先生、「あん石しゃチン釣り石というて・・・」

生徒、「先生、嘘ばっか、こげんとこ(こんなところ)で海の魚が釣れるわきゃ無かたい。」

先生「うんにゃ(いやいや)、昔しゃ、ここんとこまで海岸で・・・・」

ということで話を聞いたそうです。もちろん先生は地元の方です。勝海舟、坂本龍馬が通っ

たのではないかと言う、千々石断層の中腹を走る「早駆け街道」の話も聞いたそうです。



長崎県は今や広域人事で、通勤の先生ばかり。学校の指導も忙しく、勤務校の地域のこと

も知らない方ばかりのようです。学校で副読本も作っているのですが、娘が使った小学校

3,4年生の副読本を読んでも、どうも、知識に偏った感じ・・・


本当は、民話、言い伝えなどの中に、柳田國男「遠野物語」のように地域の文化があると

思うのですが。地域の人が頼りですが、地域の人も段々忘れていく話ばかりで、この石の

上のカッパさんが無かったら、私もこの石のことはまったく知らなかったでしょう。


とにかく、若い子は「温泉神社」と言うと、「昔は温泉が湧いとったとね。」という時代。知っ

ていることは何とか伝えて行きましょう。



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2012年6月25日 (月)

田植え風景今昔~雲仙市千々石町

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今の田植えの風景です。去年も書きましたが、今の田植え、ほとんど機械ばかりです。トラ

ックターで整地、田植機で田植え、ほとんどの田が2~3人。田植機が入らないところを手

植えをします。田植機は一年に一回の出番です。

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昔の田植えと、稲刈り風景。集落でまとまって、今日はAさんの所、明日はBさんの所と共

同してやっていたそうです。今はもうこの風景は見られません。


農作業は機械化で随分楽になったようですが、機械の借金に追われているみたいで大変

なようです。トラックターは一家に大小2台持っているところもあります。

素人から見ると、共同購入して使えば楽なのになと思ったりするのですが・・・

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もちろん昼食も、共同調理で

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食べるのも一緒。多分話がはずんだでしょう。

驚いたことに、

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昭和15年の写真ですが、農繁期の隣組における託児所があったことです。こどもが5~6

人は普通の事ですから、子どもの多いこと。でも、ちゃんと隣組で子どもを見るのは、今の

時代より進んでいるんじゃないでしょうか。


冠婚葬祭もここ数年大きな葬儀社ができて、近所同士助け合う事も少なくなりました。葬式

の時は近所同士炊き出しをしたり、準備をしたりしながら、大変でしたが、いろんなことを話

したものです。今は、近所同士顔を合わせるのは、1年に2~3回の自治会の話し合いの

時だけ。近所の子どもの顔さえ知らなくなっています。


不況を別にすれば、なんにしても楽な時代になりました。きつい労働、貧しい暮らし、「昔は

良かった」という気はありませんが、昔の写真を見ていると何か、ほのぼのと楽しくありま

せんか?


今日のおやつ:

いつも、長崎の行き帰り、諫早市戸石にある「ルイーズ」さん、気になっていたので、「ホワ

イトムース」だったかな。少し小ぶりの上品なケーキでした。

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2012年6月24日 (日)

この一曲~夜が明けたら★浅川マキ

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浅川マキ、独特の声で一世を風靡した歌手です。


これCDですが、CDの音質についてはあまり好まなかったとのことで、聴き返してみると、

やはり浅川マキの音楽は、針を落としてレコードで聴くのがピッタリですね。


「時には母のない子のように」という歌がヒットしましたが、高校時代には父と母を亡くした

伊奈かっぺいさんは「時には母のある子のように」、なんて詩を書いています。「時には母

のある子のように 黙ってないで海を見つめていたい 時には父のある子のように みんな

で旅に出てみたい・・・・・」。


長崎市で酒飲んで、バスのターミナルで千々石(ちぢわ)行きのバスの乗ろうとしたら、隣

に京都行きの夜行長距離バスが停まっていて、思わずそちらのバスのスッテップに足をか

けようとしたのですが、結局は千々石行きに乗ってしまいました。あの時、向こうのバスに

乗っていたら、今の人生どうなっていたのか。


何もかも捨てて、別の土地で、別の人生を送りたいと思うのは、私だけでしょうか。今となっ

ては年で、体力も気力も無く、かみさんに縋(すが)って生きている毎日です。



夜が明けたら


夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

切符を用意してちょうだい

私のために一枚でいいからさ

今夜でこの街とはさよならね

わりといい街だったけどね


夜が明けたら一番早い汽車に乗って

いつかうわさに聞いたあの街へ

あの街へ行くのよ

いい人が出来るかもしれないし

ンーあの街へ行くのよ


夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

切符を用意してちょうだい

本当に本当よお 一枚でいいのよ

いつだって身軽なあたしじゃない

そうー乗るのよ

(浅川マキ作詞・作曲:山本幸三郎編曲)


You Tubeに、この歌を歌っている映像がありました(一番だけですが)。ビリー・ホリデイー

についてラジオで語っているのもありましたが、浅川マキさんファンの方は聞いてみてくだ

さい。浅川マキが目指していたものが分かると思います。

2010年1月17日、急性心不全にて逝去。67歳の人生でした。



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2012年6月23日 (土)

小浜/ジャカランダ祭★千々石/仙落としの滝★唐比/ハス園~雲仙市小浜町・千々石町・諫早市唐比(2012年6月23日)

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朝から小浜の病院に見舞いに行ったついでに、あちらこちらへと。


ジャカランダの花。大きな木には花が咲いているのですが、小さな木には花が付いていま

せん。どうも、冬の寒さの厳しさが影響をしているようです。


この像、「おなよい節の女性像」です。ここらが温泉街の中心になりますが、昔は海岸で、

全部埋め立てられたものです。以前は北野というところが中心地でした。


「おなよい節」は、昔、青年小屋、娘小屋があり、昼の漁業の疲れを癒やしながら歌った地

唄から生まれたといいます。「おどんが父(ちゃん)たちゃ」と始まりますが3番の文句が良

いですね。


ござが一枚で

枕は二っヤーンサホイ

一ちゃ様女(さまじょ)の待ち枕ヨーイヨイ

女(おな)よい 籠(ばら)もってこい


千々石の仙落としの滝については、昨年紹介をしていましたが、場所を書いていなかった

ので。

千々石の橘神社を過ぎた最初の信号を左折し、橋を渡り道なりに走っていくと

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2カ所ほど看板が出ているので分かると思います。右の写真の左側の道を行きます。一車

線の道路になりますが、舗装してあるので充分安心して通れます。

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左の写真。駐車場も充分にとってあります。


ここまで来るには右の写真の所を通りますが、ここ一帯は野取というところですが、ちょっと

歴史的に議論があるところで・・・


大化の改新で中央集権国家が出来たとき、都から各道別に道(官道)を通し、路駅、関塞

(関所)も設けられ、その一つとして、肥前国分(佐賀県大和市)から長崎県の新分、船越

(諫早)、山田(吾妻町)、野鳥の駅と続き、それぞれに駅場5匹を常置し、国の命令などを

伝えていたそうですが、この「野鳥」がここであったか、島原あたりであったかはっきりした

ことが確定してなく、各説あるところです。当時の道はこの写真ではなく、この付近の林の

中を通っているそうです。

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梅雨時なので、滝がもっと太っていると思ったのですが、昨日の良い天気のため、思った

ほどの水量ではありませんでした。でも、滝の音と、オゾンを充分吸って、リラクゼーション

してきました。世俗と離れ自然の中に溶け込むって良いですね。


このあと、唐比の「ハス園」に行ってきましたが、先日いった時よりは咲いていましたが、ま

だ少しというところでしょう。

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それでも、10台ほど車が止まっていて、皆さんハスの花を観賞していました。


最近、「写ガール」といって、女の方が写真を撮るのが流行っているようですが、ここは「写

オバ(写真を撮るおばさま方)」さんが多く、結構良いカメラ持っていますね。カメラというよ

り機械に使われている感じで・・・私も昔銀塩のカメラを楽しんでいたのですが、今のデジタ

ルカメラのようにすぐに撮したものを確認できず、どんな写真が撮れているか、写真屋さん

にどきどきしながらいってのですが・・・

ちなみに、今の私のカメラは、展示処分特価9,500円のデジタルカメラです。

(参考:「小浜町史談」・「島原半島の歴史」松尾卓次監修)



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2012年6月22日 (金)

小さな博物館・展示場~雲仙市愛野町・千々石町岳地区

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以前、愛野町に前田タクシーという会社がありました。バブル期には飲みに行くのに、諫早

だ、小浜だ、長崎だ、ひどいのになると福岡までタクシーを飛ばした人も(私の知人です

が)いたのですが、近年の不況で利用者も少なくなり、この会社も廃業してしまいました。


社長さんが車好きだったとのことで、車庫を利用して「タクシー博物館」なるものを開館しま

した。ここは、乗務員さんの控え室だったと思います。

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中はタクシーを一台と、その部品などが並んでいて、ただそれだけなのですが、社長さん

のタクシーに対する愛着の気持ちは伝わるものがありました。男の子なら興味を持つので

しょうが・・・残念ながら先日行って見ると撤去して、なにもありませんでした。


さて、もう一つの小さな展示場は、千々石の棚田の間をぬって、ヤマメの里に行く途中にあ

ります。

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道の側ですから、すぐに分かると思います。何だろうと思って、入ってみると丁度年配の奥

様がおられ見せていただきました。

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並んでいるのは、「一升枡」、「とうみ」、「鋤(すき)」、「ぶっと」、「せんば」、「じょれん」、「除

草機」、「田植網」、「ぶり」、「ちきり」、「馬が」、「ちん針」、「はみ切」、「はん切(桶)」、「こっ

ぱ切」。昭和初期に実際に使われたものだそうです。


今は、もう機械化で使われていないのばかりですが、ご主人が捨てるに忍びず、皆さんに

見ていただこうと置いてあるそうです。


たぶん、皆さんの中にも何に使うか知らないのもあると思います。わたしも、大体が都会育

ちで、全然農業には関係が無いので分からないのもあり、奥様にボチボチ聞きながら、見

ていきましたが、こんなので、この「日本の棚田百選」に選ばれた田を耕していたのかと思

うと感慨深いものがありました。


皆さんも、これを見て使い方を聞いて棚田を見ると、昔の田畑仕事の大変さが分かり、棚

田を見る目も違ってくると思います。


「ゆずごしょう(350円)」も買ってきましたが、なかなか、柚の香りが良く薬味に使うと良い

ですよ。なお、ゆずごしょうは、冷凍で凍らせておくと、いつまでも青い色も香りも褪めませ

ん。


両方とも使い捨ての時代と違い、自分が使ってきたものに対する愛着心、大事にする心が

ひしひしと感じられるものでした。


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2012年6月21日 (木)

西郷隆盛・勝海舟・福沢諭吉掛け軸★小浜町歴史資料館~雲仙市小浜町

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毎日雨ばかり、外に出られなくて、なんかブログネタがないかと思っていたら、回覧で

2

というチラシが入っていたので出かけて見ました。なにせ、西郷隆盛、勝海舟、福沢諭吉

の書が見られるとあっては。


ここの、資料館以前にも2回ほど紹介したことがあるのですが、入ったすぐの所に一番上

の写真の絵図、「大正広重」といわれる吉田初三郎の鳥瞰図、「日本八景雲仙地獄交通図

繪」が置いてありました。左右にまだ広がっているのですが、写真には入りきれません。こ

れだけでもよく見ていくと面白いものです。


いろいろ展示物があるのですが、とりあえず、目的の掛け軸を。

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右から、福沢諭吉、西郷隆盛、勝海舟の掛け軸です。

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なんといいますか、中身があまり良く読みきれないのですが、時代を作った三人の偉人の

掛け軸だと思うと、オーラが違いますね。しばし、歴史へ思いを馳せて見ておりました。


あまり歴史に興味を持たない女性の方は、西陣織だとか、友禅織りの凄いのがたくさん展

示してありますから、これだけでも目の保養。

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これだけ並べてあれば、まさに圧巻。湯太夫本多家の所蔵かと思っていたら、某お茶だっ

たか、お花の先生の所有物だそうで、もっと良いのがあるのだが、あまり展示は出来ない

ということでした。全部合わせれば何千万円になるのやら・・・あるところにはあるもんで。


さて、入り口の入場料金を取るところに、この本が5~6冊置いてありまして。

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長崎県が発刊した「長崎県ミュージアムガイドブック」で、中身は右の写真の様に、長崎県

下の、博物館、資料館、美術館等々すべてが網羅、紹介されたた物で、一週間ほど前、図

書館で見て、入手したかったので、「おいくらですか?」と聞くと「いいですよ」「???」、「ど

うぞお持ち下さい」ということで、只でもらってきました。カラー版、200頁ほどの本。入場料

300円ですが、かえって儲けたようなラッキーな日でした。残部少数のようですから、欲し

い方は早めにどうぞ。たぶん、本屋さんには出ていない非販売本でしょう。


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2012年6月20日 (水)

航空殉難九勇士之墓~雲仙市千々石町岳地区

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「航空殉難九勇士之墓」です。


ガダルカナル島で全滅した第29連隊を新たに再編成し、その連隊長が、昭和19年2月2

日、新軍旗(当時の軍旗は命より大切な物でした。)を持ってガダルカナルの部隊に飛行

機で向かう途中、悪天候とエンジンの不調で、雲仙岳の山腹に激突し、搭乗した9名全員

が死亡し、それを供養するため、岳地区の方が、五十回忌の時に供養をし墓碑を建てら

れた、という事で千々石町郷土誌には書かれていました。

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墓碑の横には9名の名前が彫られています。

ところが、裏の方を見ると

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「昭和二十二年 建立者千々石婦人会 土地寄附 山本□(判読不明)次郎」となっている

のです。


第2次大戦が終わったのが、昭和20年8月15日、大戦が終わった2年後に立てられたも

のです。要するにこの碑が昭和22年に最初建てられ、その後50回忌に、奉賛会を作り、

上の写真のように整備したものでしょう。この碑だけが古びているのを見ても分かると思い

ます。一番右の碑文(説明版)の最後には「平成2年8月15日 航空殉難九勇士(立碑)奉

賛会」と書いてありました。


ところで、この「千々石町婦人会」が、なぜ建立者なのか、ずっと分からなかったのですが、

ふと考えてみると当時の千々石の婦人会の会長さんが「橘イツヨ」(町誌の別ページには

「五代」と記述してあり、ここらへんはしっかりしてもらいたいものですが)。橘中佐の妹さん

です。多分丸印で囲んだ方に間違いないと思います。

5

愛国婦人会会長が「橘エキ」。橘中佐の未亡人です。それに次いで国防婦人会、戦後の

千々石町婦人会を継いだのが、橘イツヨさんです。昭和33年まで務めておられます。

はやり、軍神橘中佐の妹として、この殉難の話を聞いて、婦人会で建てられたものでしょ

う。


場所は、日本の棚田百選で有名な岳地区の共同墓地。千々石のヤマメの里に行く途中に

あり、道のすぐ横にあります。

この間も出しましたが、千々石の岳地区の棚田です。田植えはすっかり終わっています。

参考:碑文(航空殉難九勇士奉賛会説明板) 千々石町郷土誌

P6030320


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2012年6月19日 (火)

肥前鳥居★宇都(うず)の愛宕社~諫早市

1

諫早市の城山の駐車場で彼女と待ち合わせ。

時間があり、駐車場の右手に鳥居があったのでいってみたら、愛宕社の肥前鳥居でした。

ここ愛宕社については少しばかり、本で読んだことがあり、時間があれば登ってみたかっ

たのですが。


肥前鳥居については、有家町にいたころ、大正11年の地震で崩れた温泉神社の一の鳥居

が肥前鳥居であったとか。あの頃は、興味も無く、「ふむ、ふむ」と聞いていたのですが、思

い出してじっくりと説明版を読んで見ると、この「肥前鳥居」佐賀県を中心に福岡、長崎の

一部に分布しているそうですが、諫早では唯一残っている鳥居だそうです。諫早市の指定

有形文化財です。有家町の鳥居も残っていたら歴史的に興味深いものだったでしょう。。


鳥居の種類として3種類

2

3_2

そして、この肥前鳥居が描いてありました。

4

特徴として、木鼻(一番上の笠木の両端)が流線型に伸び、柱、笠木と島木が一体化し、

それぞれに三本継ぎになっている事だそうです。


額は黄檗(おうばく)宗三筆の一人、中国の名僧「即非(そくひ)」の書で、「雪峯頭陀(せつ

ぽうづだ?とうだ?説明版と「諫早を歩く」に違いあり)即非書 愛宕山 諫早豊前藤原茂

眞(しげさね)立」と書いてあるそうですが、残念ながら「愛宕山」は分かるのですが・・・・

5_2

柱が三段になっているのは一番上の写真で分かると思いますが、笠木と島木と貫石の継

ぎ手の部分です。

6_2

良い仕事してますね。

8 9

0 11_2

こうして見ていくと、鳥居も面白いもんですね。なお、鳥居の真ん中は神様が通る所で、人

間は中央を避けて通ってくださいということでした。

彼女が来たのでそれでは・・・といっても、いつもの、うちのかみさんですが・・・たまには・・・

(参考:説明版 諫早を歩く~山口八郎著)


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2012年6月18日 (月)

雲仙鉄道 その10~昔の写真より★雲仙市千々石町

P6060386

今日は、南島原市の原城図書館にいって調べ物、その後廃線になった島原鉄道南目線の

駅舎の写真を撮って(後日紹介します)、加津佐の知人宅であれやこれや話をして、久し

ぶりに旧交を温めてきました。まあ、昔の仲間は良いもんですね。


さて、今日は、またもや雲仙鉄道のことです。しつっこいようですが、線路は続くよどこまで

もと・・・


上の写真はこの間、「千々石、今昔~写真による今と昔」の最後に載せた写真ですが、こ

の写真は、千々石少年自然の家の知人から、自然の家に面白い写真があるよということ

で見にいった写真です。(写真はクリックすると拡大します)


感の良い方と、鉄道オタクの方は分かったと思いますが、左下の部分、なんと雲仙鉄道の

鉄路が写っているのです。場所は千々石断層の下の方になります。

P6060389

拡大すると、赤の線の部分です。


従来、駅舎とかトンネルの所を汽車が走っている写真はあったのですが、このように鉄路

が敷かれている雲仙鉄道の写真は珍しく、本邦初公開でしょう。見る人が見れば実に貴重

な写真です。風景を撮っているとき、たまたま写っていたのでしょうが。


今の写真です。一番上の写真を写したところは木が茂って写しにくいので、千々石へ下る

坂の途中の展望所から撮った写真です。

P6130063

この間紹介した線路と、千々石道の関係ですが、

P6060386_2

赤の線が雲仙鉄道。黄色の線が千々石道。勝海舟と坂本龍馬、そして伊能忠敬が通った

道です。

現在の写真で見れば、

P6130063_3

写真の精度が悪いので、正確な経路では無いのですが、大体の感じで、赤い線が雲仙鉄

道、黄色の線が千々石道でになります。

今日はオタクっぽい話で、申し訳ありません。



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2012年6月17日 (日)

この一曲~古い友達★グラシェラ・スサーナ

P6170001_2

グラシェラ・スサーナ。1953年生まれ、アルゼンチン出身でで70年代にヒットした歌手で

す。アルゼンチンの「タンゴフェスティバル」で優勝した実力派歌手ですが、菅原洋一が日

本に連れて来ました。今はあまり表には出ないようですが、現在も歌い続けているというこ

とです。


これLPレコードですが、1978年に発売されているようですから、25歳の時のレコードで

す。スサーナーのCDも何枚か持ってはいるのですが、はやりタンゴの本場アルゼンチンの

血が流れているのでしょう、「カミニート」というCDでは、タンゴばかり入っていますが、フェ

スティバルで優勝するだけのことはある歌唱力で「エル・チェクロ」なんて凄いですよ。


さて、この「愛のメッセージ」に入っている曲で、「さよならの鐘」とか「別れの秋」とかも好き

なのですが、この「古い友達」の2番目の歌詞、「別れて覚えた なぐさめの煙草」というフ

レーズが何とも好きで・・・ただ、随分調べたのですがこの曲だけはどういうわけか、どの

CDにも入ってないんですね。近ごろ、レコードプレーヤーを使ってないので聴けないのが

残念ですが、歌はちゃんと耳の奧に残っています。



ふるい友達


男と女は わからないものね

いまごろあなたとめぐり逢うなんて

あのころは おたがいに

わがまますぎたわ

幸福(しあわせ)の合鍵を 知らずに捨てたのね

あなたとわたしは古い友達


別れて覚えた なぐさめの煙草

返らぬ思い出 灰になるばかり

だめなのね だめなのよ

あなたでなくては

唇はだませても 心はだませない

あなたとわたしは古い友達


あなたの噂は 旅先で聞いた

あたしもいまでは ひとり暮らしなの

もうなにも 言わないで

じっと目をとじて

踊りましょ 流れましょ

ふたりで 夜明けまで

あなたとわたしは古い友達 

(水木ひろし作詞:桜井順作曲:J.リベルテーラ編曲)


私が、こんな経験したことあるかって?それは、ひ、み、つ。

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2012年6月16日 (土)

お母さん方へ~子どもの作文から

P1000966

今日は朝から豪雨。雷まで鳴って、その中、あちらこちらで田植えをやっていました。どこ

にも出られないので、ブログネタはないかと捜していたら、面白い資料が。


子どもが小さいときは良いですね。だんだん大きくなると共に、期待が大きくなって来て、有

名幼稚園へ有名学校へ。お母さんの小言も段々多くなって来ます。


これは、どこの資料か定かでないのですが、コピーをしていたので。子どもの作文です。


「僕のお母さんのしかり方は、大変面白い叱り方です。

僕には一言もものを言わせないで、ペラペラ、ペラペラ、二十分くらいつづけてお説教しま

す。

まるで『ビルマの竪琴』の映画でみた機関銃のようです。

僕はその間、良くきいているような格好をしています。

お母さんは叱ってしまうと、いつでも『わかったか』といいます。

僕は何も分かりませんが『はい』ということにしています。

先生、この作文のことは、お母さんには話さないでください。」


なんと、けなげな子どもでしょう。なくて七癖といいますから、このお母さんも気づかない

で、いつもの癖で小言をいっているのでしょうが、多分ほかのお母さんも同じ事をやってい

るのではないでしょうか?「わかったか」「はい」。本当に子どもが分かるような叱り方をして

ください。


もうひとつ。百点をとってきた子の作文

「『ほらお母さん答案をもらってきた』

と見せると、お母さんは黙って見ていました。

『お母ちゃん、はよ何か言うて。』といいますと、お母さんは『こんなやさしい問題、たいした

ことはない。』といいました。


子育てが終わって、改めて、今の若い保護者の方が、子どもを叱っているのを横で聞いて

いると、同じような事を言っている方が多いようで・・・

1

今から10年ほど前、通学合宿をしていた子供たちです。掃除、洗濯、炊飯を協力して生活

したり、喧嘩もありましたが自分たちで 解決したり、子どもって、結構生活力があるもんで

すよ。もう今は、全員二十歳前後の成人です。


植木等も歌っていたでしょう、「一言文句を言う前に ホレおふくろさん ホレおふくろさん 

あんたの娘を信じなさい ホレ信じなさい ホレ信じなさい」

(西島大作作詞:山本直純作曲編曲)


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2012年6月15日 (金)

2012 唐比(からこ)ハス園(6月15日現在)~諫早市森山町唐比

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やっと梅雨らしく雨が降ってきました。買い物ついでに唐比ハス園の様子を・・・・


このハス園、唐比地域の方が「唐比すいれんの会」を作って、一年を通して手入れをして

いるものです。昨年は天候不順であまり良くなかったみたいですが・・・


ハスの花ははまだまだといったところですが、あちらこちら、ぼつぼつと咲き始め。

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蕾は十分に上がって、色づき始めていますからもうすぐ咲き始めるでしょう。少し雨がふっ

て葉に水がたまっていて、風が吹くと、葉と共に揺れるのも、なにかゆったりとして風情が

あるもんです。

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睡蓮は今年は何となく数が少ないみたいでした。

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アメンボもたくさん泳いでいて、都会にはいないようなので子どもも喜ぶと思います。

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ここのハス園でには17種類のハスが植えられているそうです。

P6150216


ここ、唐比については過去4回ほど取り上げています。下にリンクを張っておきますので参

考にしてください。唐比は面白いところですよ。


なお、唐比は昔レンコンで有名な所でしたが、今は「幻のレンコン」と言われるほどで、国道

沿いの「朝比食堂」で味わえます。すぐ近くには水晶観音があり、車で少し走れば、「風の

森」、「ギャラリー&カフェからこ野」なんてしゃれた店もあり、一日ゆっくりどうぞ。

なお、「唐比ハス祭」も開催されますが、日程が分かったらまたお知らせします。


ランチ&ティータイム~風の森→こちらをクリック

唐比一周一万歩→こちらをクリック

水晶観音様その他は→こちらをクリック

歴史好きな方は「佐嘉藩・藩境石」→こちらをクリック

いつものチュ~じゃなくてポッチよ。

 

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2012年6月14日 (木)

雲仙の鯖腐らかし石~雲仙市小浜町雲仙

1

鯖腐らかし岩と言えば、長崎の時津が有名ですが、雲仙も同じような話で、木指、富津でと

れた魚を雲仙、有馬方面へ売りに行く途中、岩が崩れそうなので、岩が崩れるまで待って

いるうちに魚が腐ってしまったということで、時津の話とまったく同じです。時津と比べると

少し迫力が無い岩ですが・・・


場所は、この間も紹介した雲仙へ登る「籠立て場」の近くです。

2

この、籠立て場の駐車場の端っこの方に

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「チェアーかご」を復元したものが。昔、外人に雲仙が人気があり、と言っても、小浜から雲

仙に歩いて行くのは大変な事で、このチェアかごーに乗って行ったたそうです。

これは四人で担いで行くものですが、二人でモッコのようなもので担いで行くのもあったそ

うですが、こちらの方が人気があったそうです。「アイゴー・ユーゴー・テンセンゴー」、「僕も

行くよ、君も行くよ、十銭だよ」と誘っていたそうです。


この籠立て場、殿様が小浜温泉に行くときの休息場とも言われますが、チェアーかごの休

息場のようでもあったようです。今の道ではなく旧道だったのでしょうから、大変だったでし

ょう。


さて、雲仙の「鯖腐らかし石」。この籠立て場で、車を置いて、ガードレール沿いに数十メー

トル歩くと右手の林の見えます(上の写真)。車からでは木が邪魔で見えません。遠いので

よく見えませんが、

4_2

アップしてみると、今にも崩れそうな岩です。どれくらい大きい岩かは下が木で隠れていて

分かりません。


雲仙のボランティア・ガイドさんで旧道を調べていたら、この籠立て場までは集落から集落

を繋ぎながら来ることができたそうですが、、この先が、国道で分断され分からなかったそ

うです。


これからは、推測ですが、この「鯖腐らかし岩」、現在は教えてもらわなければ分からないく

らいないのですが、このような話が残っている事をみると、多分この下の方を街道が通って

いたのかもしてません。


今日の昼食:

今日も諫早の病院で遅くなったので外食でした。オープンしたばかりの「慶師野」さん。

P6140140

諫早市森山町の図書館の近くで、ここは、最初町営の農村レストランでしたが、いろいろあ

って、バイキングの店に、これもうまくいかなくてもう一回経営が変わって、それでもダメで

確かこれで4回目のオープンだったでしょう。なかなか雰囲気は良いのですが、やはり国

道から少し入らなければならないのがネックなのでしょうか。


メニューを見て、レディーズランチがおいしそうだったのですが、日替わりランチで我慢しま

した。現在、プレオープンと言うことで、もうすぐ本格的なグランドオープンだそうです。

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日替わりの「鰺のフライランチ」、500円でした。

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2012年6月13日 (水)

力石★温泉神社&千々石少年自然の家~雲仙市千々石町

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梅雨の晴れ間、初夏を思わせる暑さで、千々石海岸には親子で早々と水遊び。


今日は、千々石少年自然の家の知人から、小耳にはさんだ話を。


力石は各地にあり、千々石の温泉神社にも力石が置いてあります。

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赤の四角で囲んだところに置いてありますが、昭和54年の千々石郷土史によれば、「鳥

居の根元に『力石』が置いてある」と書いてありますから、多分こちらの方に移したものでし

ょう。

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下の台には、明治三十一年と奉納者の名前が書いてありましたから、あとから作った物と

思われます。石には「奉納 力石」と書いてあって、左右にも文字が書いてあるのですが

薄くなって読めません。


さて、この力石、説明を読めば「古くは、この石を持ち上げた時の感じ方で願い事の成就を

占う物でした、その後、周辺の力自慢達が力試の競技としてこの石を持ち上げて競い合い

ました」と書いてあり、この石に触れることで、健康、精神力などいろいろな力をいただける

と書いてありました。私も撫でてきましたが、同じ撫でるならもう少し柔らかい方が・・


さて、この石にはもう一つ話があり、昔、千々石に力が強く「荒飛(あらとび)」という力士に

なった人がいたそうです。出世して横綱になろうであろうという頃、時の横綱がねたんで殺

そうとした事をた知った荒飛は故郷に戻って農民になったそうですが、海岸から神社までこ

の石を小脇に抱いて(4~5㎞あります)氏神様の前に置き、青年達の力石にしたそうで

す。私も持ち上げてみましたがビクともしません。


これから先は、もう一つの力石とも言えるような、言えないような話ですが、少年自然の家

の知人が、その父親から聞いた話だそうです。少年自然の家の南側にはキャンプ場があ

り、石垣がありますが、昔はここまで畑を作りに上がってきていたそうです。

Photo_4

四角の所が少年自然の家ですが、今みたいに車もなく、山道を歩いて上がって行ったこと

を考えると昔の人は本当にすごかった。


ここに、二つの力石というより、昔、青年が浜から担いで登った石があるとか。青年が二

人、力比べで担ぎ上げたようですが、信じがたく見にいってみました。

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自然の家のグラウンドの側溝のすぐ横

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温泉神社の力石よりは小ぶりですが、大きさが、30~40㎝。とうてい私のように心も体

も軟弱な人間には持ち上げられないでしょう。もう一つの石は確認出来ませんでした。


ここらの石は下の写真左側のようにごつごつしたもの。右の写真が浜辺にある石です。

Photo_8 Photo_9

明らかに、海に洗われ丸くなった浜の石だということが分かると思います。


昔は今と違い青年の遊ぶところも無く、相撲を取ったり、饅頭の食い比べで百個食ったと

か、楽しみも少なかったのでしょうが、よくぞここまで運んだ物です。

残念ながらこの話を知って人も少なくなって、忘れられるでしょうが、何とか分かるように残

して欲しい物です。


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2012年6月12日 (火)

十字架陰刻自然石のキリシタン墓石出現~島原新聞より

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昨日は「日本キリシタン墓碑総覧」について書いてみましたが、島原の中世の時代を考え

るのに、雲仙の修験道とキリシタンは避けて通られないところです。

ぼつぼつ、本でも読んでいるのですが、なかなか難しい。今月の2日~3日に北有馬町で

「キリシタン大名サミット」という催し物が開かれ参考になりましたが、その後、ボランティ

アガイドで頑張っている知人から、新しいキリシタン墓が見つかったらしいとの情報が。


あちらこちら調べて見ると、島原新聞(島原半島のローカル紙です)の5月24日~25日の

二日間にわたって「十字架陰刻自然石キリシタン墓碑出現」ということで掲載されていまし

た。


記事によると、キリシタン墓碑はほとんどが島原半島南部に集中し、ポルトガル由来の西

洋式伏碑であるため、「一般にキリシタン墓碑と言えば、半円筒型(蒲鉾形)または家(庵、

切妻)型、板状に整形された「伏墓」を指すと考えられてきた。」


「ところがイエスズ会の記録によると、日本のキリシタンの初期には在来の仏塔形式の塔

型墓碑で代用し・・・これはイエスズ会か当初、日本の伝統・文化・習慣に沿う布教方針を

採ったことと合致するもので・・・すなわち、キリシタン墓碑は和風仏塔形式ではじまり、時

代と共にその形態を変えながら、最後ーある理由ーによって慶長年間後半になって出てき

たのが、所謂、西洋式の伏碑墓碑であった、と言うことができる。」


「実際、従来の伏碑中心のキリシタン墓碑観からすると、島原半島にキリスト教が入ってき

た永禄六年(1563)から、蒲鉾型伏碑が現れる1604年までキリシタン墓碑は存在しなか

ったという、矛盾を生じることになるが、その理由については誰も説明していない。」

ということで、キリシタン墓碑は従来の伏碑だという認識を改めなければならないという

事、この墓の発見でキリシタン墓碑の変遷を研究することにより、キリシタン時代の中身、

真実が明確に見えて来るのではないかとの記事でした。

P6070416

これが、今回見つかった自然石に十字架が陰刻されたキリシタン墓碑です。扁平な石で

48㎝×42㎝の自然石に彫られているそうです。


場所は西有家町の松原墓地の石垣や藪の中などの隠れた場所を調査しているときに発

見されたものだそうです。詳しくは、島原新聞5月24日、25日をお読みください。購読はイ

ンターネットでも申し込みできます。「島原新聞」で検索してください。


なお、発見者は有家町史談会の方ですから、多分、詳細は有家町史談会から刊行してい

る「嶽南風土記」に載るのではないかと思います。


昨日書いた、「日本キリシタン墓碑総覧」とはスタンスが違うみたいで、もっと新しい墓が

発見され、議論され、真実が明らかになると楽しみなのですが。

(文・写真:島原新聞より転載)


本日のおやつ:

諫早駅の近くのマルキョウの近くで見つけたケーキ屋さん「ペシェ・ミニョン」さんの杏仁豆

腐です。

Cimg0007 P6120052

ポッチお願いね。

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2012年6月11日 (月)

日本キリシタン墓碑総覧~企画/南島原市教育委員会:編集/大石一久

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先日から発刊が待たれていた本ですが、いままでキリシタン墓碑に関する本は少なく、や

っとまとまった本が出たという感じです。図書館に寄贈されていたのですぐに借りてきまし

た。


キリシタン墓碑には各種の論議があり、大石一久氏が序文で書くように、「キリシタン墓碑

ほど、その捉え方がまちまちな墓碑はない。ある人はキリシタン墓碑とするが、別の研究

者はしないという現象が各地で起こっている。だから、キリシタン墓碑に関する研究会など

に参加しても、そこに参集されている皆さん一人ひとりのキリシタン墓碑についての捉え方

が様々であり、最終的に建設的な話し合いが出来ないことを痛感している。」


このため、この本は対象基準を下記のようにしています。

①キリシタン意匠を施した墓碑

②キリシタン特有の伏墓である墓碑

③キリシタン関連石造遺物

④その他

  ・地下遺構から出た石碑(中略)で墓碑自体に戒名などを刻む石塔はあくまで仏塔とさ  

   れているためここでは割愛。ただし、戒名を刻んでいるが彫形の仕方、全体観などか

   ら伏墓の特徴を持った墓碑は収録。


大石氏によるとこのキリシタン墓碑、「キリシタン禁教後の仏塔が日本の隅々に至るまで

墓石を立てて大きく戒名を書いた墓石に一元化されたのは、まさに横に伏せるキリシタン

墓碑を強く意識した結果であったことは間違いない。」と、日本の墓石への影響を示唆して

います。

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本の中身はこんな感じですが、「長崎県」「佐賀県」「大分県」「熊本県」「大阪府」「京都府」

の192基のキリシタン墓碑と、10基のキリシタン関連石造遺物を収録し、各研究者の「論

考集」も納めてあります。キリシタン墓碑に関する研究に一石を投じる、画期的な本には間

違いないでしょう。


なお、この本、長崎県内の図書館に配布と新聞記事に書いてあったので、一般には手に

入らないと思っていたのですが、「長崎文献社」(8,400円)から出版されるそうです。

この方面に興味のある方は購入を。8,400円は高い?中を見るとその価値は十分です。

長崎県の方は各図書館で確認をしてみてください。


興味ある人はポッチしてね。

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2012年6月10日 (日)

この一曲~つめ★平岡精二

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近ごろ、大人の歌が少なくなってきたなと寂しい思いですが。


平岡精二の一世を風靡した曲。ペギー葉山の「学生時代」、「爪」、旗照夫の「あいつ」、

ザ・シャデラックスの「君についていこう」。


この間、若い女性の前で、私の美声で「つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日 夢多か

りしあの頃・・・・」と歌ってみせたのですが、「聴いたことは、あるみたい・・・・」という感じで

したが、時代は古くなりにけりか・・・


この、平岡精二、ジャズミュージシャンで、作詞、作曲、編曲家すが、トランペット、アルトサ

ックス、そしてヴィブラフォンの名手でもあります。ただ、私生活についての情報はあまりな

く、平岡養一(木琴奏者、日本人で初めてカーネーギーホールで演奏をした人)について

も、父であると書いてあったり、父のいとこである書いてあったり、どうにも良く分かりませ

ん。


このCDは全14曲、平岡精二の作詞作曲で、歌も全部平岡精二が歌っています。独特の

歌い方で、いわゆるうまい歌ではないのですが、人生をじっくり感じさせるような歌い方で、

一度聴いたら忘れられないでしょう。


さて、「学生時代」もいいし、「ちいさな虫の様に」、「あるエピローグ」、「うちへ帰ろう」も好き

だし、「つめ」、「あいつ」は代表作だし・・・ペギー葉山が好きだったので、「つめ」を。




「つ め」


二人暮らした アパートを

一人一人で 出て行くの

すんだ事なの 今はもう

とてもきれいな 夢なのよ

貴方でなくて できはしない

すてきな夢を 持つことよ

もうよしなさい 悪い癖

つめを噛むのは よくないわ


若かったのね お互いに

あの頃のこと うそみたい

もうしばらくは この道も

歩きたくない 何となく

私のことは 大丈夫よ

そんな顔して どうしたの

直しなさい 悪い癖

つめを噛むのは よくないわ    (平岡精二:作詞・作曲・編曲)



良い歌ですね。できれば、人生の粋を知った女性(アラフォーでもちろん美人)と二人で、ナ

イトクラブの片隅で、生演奏で聴ければ最高なんですが・・・


歌を知っている人はぽっちしてね。

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2012年6月 9日 (土)

橘神社「形代(かたしろ)流し」★悩めるあなたに~雲仙市千々石町

P1050415

膝の痛みはまだ引かないし、古い虫歯は又痛むし、腿の所もなにやら痛むし、前立腺のPSA

の値は標準を上回っているし、水虫は出てくるし、目はかすむし、梅雨に入って気は滅入る

し、こんな時は、苦しい時の神頼み。うちのかみさんは拝んでもご利益がないので、ほんもの

の、神さんの所へ。記帳所の所を見ると見慣れないお知らせが。

Cimg1501 Cimg1503

「<夏越大祓>『形代(かたしろ)流し』」のお知らせでした。昔、6月と12月に宮廷で国民の

犯した罪を除くため、大祓の神事をしていたそうですが、12月の方が「年越し」、6月の方が

「名越し」であり、起源は「大宝律令」に定められているそうですから、随分古い歴史を持つ儀

式です。


この大祓が民間の神社でも行われるなったそうで、「名越し」、「夏越し」とも書かれるようで

す。


「形代」は、禊(みそぎ)や祓(はらえ)をするとき、人の代わりに用いる人形(ひとがた)だそう

ですが、調べて見ると、善用と悪用があるようで、悪用は呪殺などに使われたそうで、要する

に時代劇に出てくる、わら人形に釘を刺す丑の刻参りもこの一種でしょう。


人形は陰陽師も使っていたそうですが、こちらの人形は善用です。

P6090497_3

この人形に名前、住所などを書き、体を撫で、息を三度吹きかけ、罪や穢れを人形に移し、

お祓いをし、川に流し、清々した身に戻り、次の半年を無事に過ごしていくものだそうです。

橘神社では6月30日、午後5時30分より拝殿で神事、人形をお祓いで清め、千々石川に流

すそうです。受付は6月28日の午後までだそうです。悩みをお持ちの方はいかがでしょう

か?もちろん私もいただいて来ました。

(参考:各ネット・橘神社説明文)


「古式とうふ豆吉郎」なんて、車が止まっていたので、一つ買って、ネットで調べると載ってまし

た。意外とこだわりの豆腐屋さんみたいで、諫早駅近くのマルキョウ付近に停まっていまし

た。興味ある方はどうぞ。

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お祓い代わりにポッチしてね。

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2012年6月 8日 (金)

2012 第7回小浜温泉ジャカランダフェスタ~雲仙市小浜町

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昨日、小浜を通りかかったら「第7回ジャカランダフェスフェスタ」が、開催されていました。

6月1日から30日までで、イベントも多少開催される様子ですが、花がまだまだという感じで

した。一部開花の感じで、ここらあたりは、桜と同じで、木によって早く咲くのと遅く咲くのがあ

るようで、

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全体的には、まだまだ。いまこの通りに植えて毎年木が太り、「ジャカランダ通り」と名付けて

います。

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小さいながらも、頑張って咲いているのも、植えて間もない木でしょう。

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説明版によれば、この花は「カエンボク」、「ホウオウボク」とともに、世界の3大花木だそうで

す。


さて、「ジャカランダ」といっていますが、ギターを使っている方はご存じの「ハカランダ」です。


「Jacaranda」と書きますが、スペイン語読みすると「ハカランダ」と読みます。スペイン語は「J」

の音を、「ja」を「ハ」、「je」を「へ」、「ji」を「ヒ」、「ju」を「フ」という風に発音します。のどの奥から

強くく息を出しながらですが。日本は「Japon」と書き「ハポン」と発音します。カルメンの「ドン・

ホセ」も「Don Jose」と書きます「Don Hose」ではありません。


ちなみにスペイン語では「H」の音の発音がなく、「Hotel」の発音は「オテル」です。昔、ガルシ

ア・ロルカの詩を原語で読みたくて、多少スペイン語をかじったものでしたが・・・


さて、ギターを持っている方には、このハカランダを使ったギター、高嶺の花。ただ、ハカラン

ダも50種類ばかりあるそうで、ここに植えているのと同じかどうか分かりませんが。


この、ハカランダは現在、資源保護のため、ブラジル政府が輸出禁止をしているために、高

価になっていています。

P6080486_3

私のギターですが、裏板はハカランダです。新品で買えば、給料の3~4倍くらいでしたが、

中古で買ったため、半分くらいですみました・・・この事は、かみさんには内緒・・・・


今日の昼食:

病院で診察が遅くなったために外食。少し太り気味のため「JAグループの諫早Aコープレスト

ラン、限定30食の日替わりランチ」。ご飯が少なかったのは良かったが、うどんが多すぎた

か。

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ハカランダーのギター持っている人はポッチね。

 
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2012年6月 7日 (木)

秘められた恋文~埋め草

P6070433

携帯マニアでもないのですが、捨てきれず取って置いたらいつの間にか増えていました。

今日の話は別に携帯電話のことではありません。


先日から、ボチボチ持っている物を整理していたら、職業柄、人前で話すことが多く(催眠商

法ではありません)、いろいろ集めた資料が出てきて、意外と面白い物が多く、ブログネタが

無くなったとき、「埋め草」ということで時々を紹介ていきます。良かったら、話の種に使ってく

ださい。


埋め草とは新聞、雑誌などで紙面が全部埋まらないとき、適当な記事を入れてスペースを埋

める事だそうですが、語源は、城を攻めるとき、掘りを埋めるため草を使った事から、だそうで

す。


さて、皆さんは恋を告白するときはどうしますか?たぶん、いまは上の写真のような携帯のメ

ールを使っている方が多いでしょう。


この、「秘められた恋文」は、確か「國文学」(學燈社)か、「国文学解釈と鑑賞」(至文堂→ぎょ

うせい)に載っていた話です。両方とも廃刊になりましたが。書いた方は、瀬沼茂樹氏、小沢

信夫氏共著です。手紙のない時代、また、一般民衆が文字を読み書きできなかった頃、どう

して恋する相手に想いを伝えたかの話です。


「たとえば『石文』がある。

紀州の農村では、恋する若者は、小石に松葉を結びつけて、思う女に送った。受け取った方

はこの小石の松を『恋しく待つ』と読みとるのである。祖先伝来の方法だから、読み間違える

はずがない。彼女は彼の心がわかるのである。

これが縁となって、夫婦になりやがて子どもが生まれる。すると男の子なら石吉とか石作と

か、女の子ならお松などと命名するしきたりだったそうである。愛の結晶であることの公示で

ある。この風習は下野(栃木)にもあった。

これにあてはめれば、かの森の石松の両親は、まさしく石文によって結ばれたカップルだった

ことになる。また、せっかく送った石文を握りつぶされて、なんの反応もない場合がつまり『な

しの礫(つぶて)』である。」

ここまで書いて、由紀さおりさんの「恋文」を思い出しました。


アズナヴール 流しながら

この手紙を 書いてます

秋祭りに 買った指輪

小指に光ります

椅子の上には 赤い千代紙

窓のむこう 昼下がりの小雨

何を見ても 貴方様を

思い出して候


(2番略)


拙き文を 読まれし後は

焼いて欲しく候           

(作詞:吉田旺 作曲:佐藤勝)


最後の所、拙き文を・・・・もう泣けますね。


手書きの恋文、ラブレター良いですね、私も文章がうまく、字が上手なら何百通だって出した

んですけれど、一回も経験ありません。もらったことも・・・・


今日のおやつ:

雲仙野菜プリン。人参、カボチャ、アスパラ、じゃが。珍しかったのでジャガと人参を。じゃがプ

リンはしっかりとジャガの味がしました。

P6070422

恋する貴方はポッチよ。

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2012年6月 6日 (水)

千々石、今昔~写真による今と昔 その2★長崎県雲仙市千々石町

さて、今日は昨日の続きでおつきあいしてください。

上は昭和40年頃の第一小学校の航空写真、下は昭和22年頃の第二小学校です。

どちらも、木造校舎です。私も一時木造校舎で過ごしたことがありましたが、ぬくもりがあっ

て良かったですね。今は学校に入って写真を撮ると不審者と思われますので、外からこっ

そり撮りました。

Photo P6050374

Photo_2 P6050365

もうすぐ、私がお世話になるお寺です。昭和初期の写真だそうですが、わらぶき屋根で、時

代劇を見ているような感じ・・・

Photo_3 P6010206

千々石の第三発電所、ここらは木が茂り、同じアングルでは撮れませんでした。発電所で

すが、やはりわらぶき屋根です。昔の写真、左の山の方に大きな岩が見えますが、今は木

が茂って見えません。

Photo_4 P6040345

さて、千々石町といえば橘中佐が祀られている橘神社が有名ですが、橘中佐の生家で

す。いまは、市営住宅(旧千々石町営住宅)になっていますが、おおきな木の所に、橘中佐

生家跡の碑がたっているばかりです。この、旧家の一部が橘神社社務所の所に移転され

ています。

Photo_7 P6050352

工事中の鳥居と、軍神橋。

Photo_8 P6050355

Photo_9 P6050361

この軍神橋の所に皇紀2600年(昭和15年)を記念して、樟が植えられました。人物の後

の細い木です。今では信じ切れないくらい大きくなっています。

Photo_11 P6050357

神社の拝殿の左に「忠霊塔」がありますが、重機もなかった頃の工事風景です。昭和36

年の写真です。

Photo_13 P6050369_2

さて、最後のサービスに千々石町の全景を。

P6060391

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『千々石、今昔~写真による今と昔、終了』

(写真:千々石町老人クラブ「千々石町懐しいふるさと写真集」)


よかったらぽっちね。

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2012年6月 5日 (火)

千々石、今昔~写真による今と昔 その1★長崎県雲仙市千々石町

Photo

雲仙の紹介が多かったので、たまには地元の千々石のことでも。


平成4年、千々石老人クラブ連合会が、各家に眠っている写真を集めて写真集をだしました。

見ていると、時代、風景の大きな変化を感じます。「昔がよかったはずがない」という本があり

ましたが、クーラーもない、車もない、テレビもない、PCもない、冷蔵庫もない、ゲームもなか

った頃の写真と、今の風景をできるだけ同じ角度から写真に取ってみました。


皆さんの、近所も多分同じように変わって来ていると思います。写真が多いので2回ほどに分

けます(各写真クリックすると拡大します)。


下左の写真は大正12年にできた千々石橋です。橋の渡り初めは、三世代そろった家族(今

は珍しくありませんが。)が先頭を歩いたものです。このときは地元の椿山家が務めたそうで

す。

橋の後ろ側、松が生えているのが分かると思います。今は一本も残っていません。

Photo_2 P6010212_2

昔は千々石道といわれる街道がありました。下の写真です、長崎まで島原の殿様が通り、伊

能忠敬、坂本龍馬、勝海舟も多分この道を通ったはずです。写真には「大正末期塩浜街道」

と書いてありますが、この塩浜街道という言葉はもう使われておりません。やはり左側の松

林、今もありますが、随分減ってきているのが分かると思います。

Photo_3 P6010220

この道の左側に海がありますが、昭和41年「このしろ」が大量で、網で引き上げが出来ず、

渚から荷揚げしたそうです。波打ち際白く見えているのが「このしろ」です。今やこんな風景見

たことありません。海岸に堤防ができ、煮干工場が少なくなってしまいました。

Photo_4 P6040337

海岸近くといえば以前書いた「福石様」がありますが、少子化のため子どもが遊ぶ風景も少

なくなりました。昔は「福石様」に通じる道は無かったんですね。牛を洗っているのが分かると

思いますが、牛や馬を飼う家自体もほとんどなくなりました。

Photo_5 P6010215

これも以前紹介沁ましたが、八カ島という所で牛市をやっていました。戦時中の写真だそうで

すが、今は影も形もありません。市営住宅が並ぶばかりです。

Photo_7 P6050347

昭和中期の写真。この道の上に墓地がありますが、お墓参りの風景。ここらあたりは、あまり

変わっていません。ちなみに、かみさんの実家の墓もこの墓地にあります。ひょっとしたら、う

ちのかみさんも写っているのかな?

Photo_8 P6040341

明治23年から昭和29年まで使われた役場庁舎です。昭和30年に木造モルタル庁舎に建

て変わりましたが、平成3年に新庁舎ができ、旧敷地には病院ができました。病院の後に見

える建物が現在の雲仙市千々石支所になります。

Photo_10 P6050377_2

何となく、写真で見ると昔が、ゆたっとした感じで・・・年かな?

(写真:千々石老人クラブ連合会・千々石町懐かしいふるさと写真集)


よかたらポッチね。

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2012年6月 4日 (月)

名犬矢間の墓~雲仙市小浜町雲仙 付録:棚田百選千々石町岳地区清水棚田

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私の友人がブログを始め(十人十色。そのひとつ。)犬の話を書いていたので、こちらも

雲仙の犬の話を思い出し・・・


島原の乱後、それまで島原藩城主であった松倉勝家が詰腹を切らされたのち、後任として

浜松藩城主高力摂津守忠房が島原藩主に任ぜられますが、この家臣の加藤善左衛門清

輔が温泉山(雲仙)の管轄を命じられました。(以前も書きましたが、当時は「温泉」と書い

て「うんぜん」と読みました。)


加藤氏は島原の乱によって焼かれた神社仏閣の再建に着手すると同時に、雲仙の別所

近くの原頭(はらがせ)というところの開墾を広げつつ、湯壺の経営に乗り出したそうです。

小浜の本多家が浜の湯太夫なら、加藤家は山の湯太夫です。


その加藤家の何代目になるか分かりませんが、「矢間」という名犬が飼われ、主人はいつ

もお使いを頼んでいたそうです。しかし、ある日、首にくくった荷物を山賊が襲って奪い「矢

間」は殺されたそうですが、村人が皆で弔らったそうです。

場所は、

Photo_2

西有家、口之津町方面との分かれ道の所。四角で囲んだところは「キリシタン殉教道」の

案内板がある所。その少し先です。なお、ここには、雲仙がキリシタン責めの場所になった

とき、小浜と有家方面から登ってくる合流地点です。ここには、当時の道しるべが立ってお

り左右に

Photo_4

「これよりうんぜん十八丁」、「左みなんめみち 右をばまみち」(みなんめみちは南目道、

をばまみちは小浜道)と彫ってあるそうですが、大分摩耗してかろうじて読める程度でし

た。


ここから右の道のすぐ先に「矢間の墓」があります。

Photo_6

ちゃんと浮き彫りにしてあります。

Photo_9

一番上に「名犬」。次の段に「矢間」「墓」、左に月日が「十一月□四日」。年号は分かりま

せんが、「名犬」という字が、左から右に書いてあります。古い時代なら右から左に「犬名」

と書いてあるはずですが・・・多分、近年になって作られたのでしょうが、話が長い時代伝わ

り、このような墓が作られたところをみると、よほど利発で地域の人に愛されていた犬なの

でしょう。

犬好きの方は、雲仙に行かれるとき、ちょっと寄って拝まれてはいかがでしょう。

(参考:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド~」)



付録:

全国の棚田百選に選ばれた千々石岳地区の清水棚田ですが、ここの田植えは余所より

早く植え終わっていました。

P6030320_3

私、どうも昔からあまり犬が好きでないのですが、白くまは大好きです。

P6030324


犬好きな人はもちろんポッチよワン。

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2012年6月 3日 (日)

この一曲~主よ人の望みの喜びよ/バッハ★ハーブ・オオタ

Photo_3

「ウクレレ・バッハ」というと、ウクレレを知らない方は、ウクレレでバッハを?と思う方がほとん

どでしょう。ウクレレといえば、ハワイアン音楽の伴奏楽器とか、フラダンスの後で弾いていた

りというイメージが多いと思いますが、考えてみれば、バイオリンは4弦、セロも4弦、ウクレレ

も4弦。だったら、ウクレレでバッハを弾いても悪いわけはない。


このハーブ・オオタさん、本名はHerbert Ichiro Ohta。「OHTA-SAN(オータサン)」という愛称

でウクレレを弾く方には親しまれ、知らない方は0%でしょう。「ウクレレの神様」ともいわれま

す。なにせ、13歳の時に700種類のコードを丸覚え。

日本語も堪能で、朝鮮戦争時にはアメリカ海兵隊司令官付通訳として約11年間、韓国と日本

に駐屯しています。オータサン、おしゃべりもユーモアがあって、


問:「なぜあなたはウクレレを選んだのですか?」

答:「軽いから」


てな具合で、ディナーショーなんかでは、演奏よりほとんどおしゃべりばっかりだった事もある

とか。


さて、近年ウクレレでクラッシックを弾く人も多く、「ウクレレ・モーツアルト」というレコードもあ

り、日本の代表的なウクレレ奏者、キヨシ小林さんも「ウクレレ・アダージョ」をだしています。

Photo_4

この中には、バッハ、クライスラー、ベートーベン、カルカッシ、ボッケリーニ、モーツアルト、シ

ューマン、アルビーノと、そうそうたるクラッシクの名曲が入っています。


この「主よ人の望みの喜びよ」は、バッハのカンターター147番「心と口と行いと生きざまもて」

の第6曲目「幸いなるかな、われはイエスを得たり」と、10曲目「イエスは変わりなきわが喜

び」を編曲したものですが、私の一番好きな曲でありまして、クラッシックギターを習っていた

頃、この曲挑戦したのですが、難しくて(というより私の才能が無くて)挫折をしましたが・・・


実はわたしも、ギターをやめたあと、ウクレレに替えて、この「主よ人の望みの喜びよ」も、一

番簡単な編曲を選んで練習し、大体弾けるようになりましたが、ウクレレでバッハなんか弾く

と気分最高。オータさんの演奏よりは落ちますが・・・


こCD、とにかくこれがウクレレかという素晴らしい演奏ですが、オータサン曰く、「あのレコー

ディングは疲れた。もうあんな録音はしたくないよ。」、そういえばこの手の録音はこれだけだ

ったような。

皆さんもウクレレいかがですか。一家に一台ウクレレを。楽器が弾けるのは楽しいですよ。


ウクレレ好きな人はポッチしてね。

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2012年6月 2日 (土)

片足鳥居~雲仙市小浜町雲仙  付録:諫早市森山町ハス園 6月1日

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今日は北有馬町で「有馬晴信没後400年紀念 キリシタン大名サミット」の聴講のため、帰る

のが少し遅くなったので簡単に。


雲仙のあまり気づかない所を紹介していますが、雲仙の片足鳥居です。国道筋ですが、心が

けていなければ多分見落とすでしょう。場所は温泉街の手前、札の原の小地獄のバス停の

すぐ近くです。

P5240024_2

説明版によれば温泉神社が四面宮と呼ばれていた頃、文政十年に北有馬の北村与一兵衛

が建立をしたそうです。これが、第一の鳥居になります。

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たしかに、文政十年の文字が読んでとれます。

P5240019_3


横には「四面社」の額が、鳥居に取り付けられていたのでしょう。

これが片足になった理由とか、どこかに資料を持っていたのですが見つけきれませんでし

た、分かったらまた書いてみます。


ここから先は、女人禁制だったそうで、子どもを寺に預ける母と子が、ここで涙を流して別れ

たのでょう。

この少し先に、この間書いた「七日回りの石」があり、ここから下の方には、悲恋の「猿石」が

あり、女人禁制については私たちの知らない悲話がたくさんあるのではないでしょうか。

私は女人禁制の男性ではありません。誰でも歓迎です。


付録:諫早市森山町ハス園 6月1日

前回行った時より、葉が大きくなってきましたが、花はまだまだ。

でも、このハスの葉は大きくて良いですね。風がくると一斉にゆったと揺れて心安らぐ感じ。

しばし、浮き世の憂さを忘れて見とれていました。

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良かったらポッチしてね。

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2012年6月 1日 (金)

魚洗川(いわれご)~雲仙市国見町

Photo

   【八斗木(はっとぎ)むかしむかし~国見町八斗木小学校刊から】



享保年間、国見町多比良(たいら)の地図です。ちょっと分かりににくいのですが、赤いとこ

ろに魚洗川(いわれご)茶屋と書いてあります。


島原半島は、島原から愛野に出るまで、海沿いの道、南目街道(島原~北有馬町)、西目

街道(南有馬~千々石町)と北目街道(島原市~国見町経由~愛野町)そして、山越えの

千々石道の道があります。


南目街道、西目街道、北目街道は比較的緩やかですが、千々石道は雲仙を越え、厳しい

坂を辿る道ですが、この道が一番の近道になり、勝海舟、坂本龍馬が辿った道ではない

かともいわれています。


昔、島原の殿様が長崎へ行くとき(長崎は江戸時代天領で、島原の殿様が監視するのが

役目でした。)その時、この魚洗川で一休みして、昼食を食べたと言われています。

Photo_2

右の四角から、島原、赤く塗りつぶしたところが「魚洗川」、田代原、千々石になります。

現在、このルートを辿った人が何人かいますが、話を聞くと、山間部は道が使われていな

いため荒れ果てて分からなかったそうです。


この「魚洗川」いつも何気なく通ることがあり、標識は知っていたのですが、この前ひょっと

降りて、標識の裏に何か書いてあると思って見ると。

Photo_3 Photo_4

「屋敷跡はこの奧」。裏に書くもんじゃありませんね。全然気付きません。

全体的にはこんな感じの所です。

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この道と道の間が奧ですが、植林がしてあり

Photo_6 Photo_7

林の中ですが、入ってみると、たしかに家の石垣が。

Photo_8 Photo_9

Photo_10 Photo_11

この「魚洗川」、時々話を聞くことがあり、千々石で取れた魚を島原に運ぶとき、魚が傷ま

ないように洗っていったそうです。千々石から山越えで島原までといったらちょっと信じられ

ない話。昔の人はスパーマンか?試しにチャレンジしてはいかがでしょう。命の保証はしま

せんが。


調べて見ると、この「魚洗川」、雲仙への湯治客なども通るため、多くの人が通り、茶店を

する家がかなりあって景気が良かったそうです。

凍豆腐(こおりどうふ)も作られ、また馬市も開かれていたようで、「魚洗川のこおりどう

ふ」、「魚洗川の馬」と言えば有名だったそうです。


残念ながら、昭和10年ころ1800メートル下の方に開墾地ができ、ほとんどの人が移住し

たそうです。昭和26年には一軒だけ残っていたそうですが、現在は上の写真のとおり何も

残っていません。道路が出来たため、当時の様子とは全然違っているのでしょう、林の中

の石垣以外は何にも残っておりません。場所は、雲仙から国見に下る途中の所、国道

389号になります。

参考:「八斗木むかしむかし~八斗木小学校」「新島原街道を行く~松尾卓次著」


今日のおやつ:

「いきなりだご」、意味が分からない人は、ネットで調べてね。面白いから。ここのは、あんこ

入りでした。

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よかったら、いきなりポッチしてね。

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