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2012年5月24日 (木)

「耳採(みみとり)」の地名について★キリシタンの受難~雲仙市小浜町

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寛永六年七月、長崎からキリシタンの男性37名、女性27名が小浜の石合浜に、舟で運

ばれてきました。石合浜付近です。

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いまは、海沿いに国道が通っていますが、これは全部埋め立てられたもの。

石合浜とは場所が違いますが、下の写真のようにして、小浜の海岸線は埋め立てられて

いったのです。写真は明治時代のものです。

Umetate

          (写真:おばま~史跡巡りガイドより)


さて、64名のキリシタンは坂を登り、役人は庄屋元の石清水で水を飲み休息しましたが、

キリシタンには水を与えなかったそうです。庄屋元の所ですから、ここ、上の川の湧水でし

ょう。石垣の裏が庄屋屋敷跡です。

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この後、刈水、椎木坂、道前、鬢串(びんぐし)を通ります。いまの、自動車道路ではなく、

雲仙に車で登る、左手の山の中の急坂を辿って行ったのでしょう。当時の道は全然違って

います。


この間、夏の暑さの中水一滴与えられなかったそうです。笹ン辻にかかったとき水を与え

たそうですが、全員の左の耳を切り採ったそうです。


長崎の二十六聖人が京都から長崎まで連れてこられたときも、京都の一条戻り橋に到着

したとき、秀吉の命令で耳と鼻をそぐようにしてあったそうですが、キリシタンに好意的な

石田三成が、左の耳をそいだにとどめたそうです。


小浜のキリシタンは、キリシタンの転向を迫られて切りとられたのか、逃げられたときの目

印に切りとられたのか、役人が京都の例にならって切りとったのかは分かりませんが、後

日、村人が切り捨てられた耳を集めて埋葬し「耳塚」を作ったそうです。昭和32年、小浜

~雲仙の国道改修までは残っていたそうでが・・・


場所は、小浜~雲仙間の「六兵衛茶屋」、近ごろ紅葉で有名になっている三十路苑あたり

です。

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現在は、わずかにバスの停留所に「耳採」の名前が残っているのみです。(一番上の写真

と、赤の四角がバス停です) 

(参考:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド)



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コメント

観光に関連した仕事をしております。キリスト教関連遺産も注目されており、耳採りに関してもブラッシュアップできればと考えておりますし、大変興味があります。
国道拡張まで耳塚があったとありますが、もっと知りたいと思いましてメールしました。

「小浜町史談」によると、「耳採りという地名が語り草とともに残っている」とあります。
これは、寛永6年、長崎から雲仙に連れてこられた、潜伏キリシタン(カクレキリシタン)の話になっています。片岡弥吉氏の「日本キリシタン殉教史」にも載ってますが、残念ながら、「耳採」の話は載っておりません。
あくまで、「語り草」なのではないのでしょうか?
その他、調べましたが、原史料、写真等、今のところ見つかりません。

言い伝えについては、よほど注意する事が必要でしょう。
愛野町の「首塚」も以前は、島原の乱のキリシタンの首が埋められていた、との言い伝えがあったのですが、これは、まったくの嘘。

なお、「耳採」については、「耳取」の名で各地に、いろいろな言い伝えで残っています。
高冷地で冬の寒い時、耳が冷たくなり、耳が取れそうになったので「耳取」という地名になったという説もあります。千々石の野取付近にも「耳取」という小字名があります。

事実と言い伝え、裏付けが必要でしょう。

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