玉垣額之助★江戸時代二人の大関・その2~雲仙市愛野町・小浜町出身
(「おばま~史跡めぐりガイド」より)
さて、今日は愛野の玉垣を継いだ六代目小浜の玉垣額之助です。
小浜の商店街の方に玉垣額之助の墓(碑?)があります。これとは別に、後で紹介します
が、小浜神社内に立派な顕彰碑も立っています。
文政七年と八月五日そして四十六の文字が見えますが、玉垣は文政七年八月五日、四
十六歳で逝去しています。
小浜の玉垣は、小浜町木指(きさし)の出身で、17歳の時、湯太夫(温泉の元締め)本多
家で働き始めたのですが、力があり、頭も良くということで湯太夫から勧められ、江戸に出
て愛野町出身の五代目玉垣に弟子入りします。シコ名を「漣(さざなみ)」、文化五年幕下
上位、2年後に島原藩お抱え力士になり、「越ノ海」のシコ名に。後に「玉垣」を継ぎます。
文政十一年五代目玉垣の養子になり、大関に昇進。
柏戸利助の好敵手で当時の相撲界の人気を二分したそうですが、文政六年の江戸城内
吹上での御前試合で、柏戸に勝ったそうです。
なお、柏戸とともに横綱の免許を受けたそうですが、横綱の土俵入りの時、柏戸が当日来
なかったために、自分も土俵入りをせず、横綱を辞退しています。
これには、「おばま~史跡巡りガイド」によると、詳細は分からないようですが、玉垣と柏戸
に横綱の免許を与えた京都の五条家、歴代の横綱の免許状を与えていた吉田家、そして
相撲会(現相撲協会)の関係に原因がありそうだということです。
玉垣の顕彰碑が例の謎のフルベッキの写真(5月2日のブログ)が置いてある、小浜神社
に建っています。
この碑は昭和14年、島原半島内の旧制県立島原中学校、島原高女、口加高女と53の
小学校、25の青年学校生徒児童と職員、南高来郡教育会の拠出協賛により計画された
そうです。
横に、説明文の碑があるのですが、文字が薄くなっていて読めませんでした。
この温泉神社の額、よく見ると「二九代目木村庄之助」の書です。
玉垣は大関を10年務めましたが現役中逝去しました。
生涯成績、111勝27敗とも119勝27敗13分1預14無勝負との記載も有り、現在と場
所制度も違いますのではっきりしたことは分かりません。
現代なら横綱間違いなし、地元としても大変な事だったでしょう。雲仙市から二人の偉大な
大関が生まれていたことは、忘れてはならない事でしょう。
(玉垣額之助★江戸時代二人の大関 終り)
参考:「小浜町史談」「おばま~史跡めぐりガイド~」
よかったらポッチしてね、
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