島原藩・諫早藩~藩境石塚★雲仙市愛野町
先日、諫早市森山町唐比の佐嘉藩(佐賀藩)の境石の事を書きましたが、調べればいろ
いろあるもんで、今度は島原藩と諫早藩の藩境石塚があるとか。藩境石塚とはなんぞや
と好奇心が。「山を越え」と書いてあるので、また山かと思いながらも出かけて見ました。
惜春やたまに行きたいキャバクラへ sugikan お粗末な句ですみません。
場所は、ブログで良く出ている、昭和13年に廃線になった雲仙鉄道跡のすぐ近くです。も
し、雲仙鉄道を辿る機会があったら、ちょっと寄って見てください。面白いですよ。
目印は「プラスナイロン」目立つ看板です。ここから、山王自然公園、日吉神社に行けま
す。すぐに道が分かれていますから、プラスナイロンの方向、右の道を取ってください。
「プラスナイロンの入り口右手山の中」と書いてあったので、また、山の中を捜すのかと思
っていたら、プラスナイロンのすぐ手前に、標識と看板が立っていました。さすが、愛野町
(あいのまちと読んでください。あいのちょうと言ったら叱られたことがありました)。
さて、山の中のどこらあたりかと、林の中に入ったら何のことはない。すぐにありました。
上の2枚の写真と、下の2枚の写真の違い分かりますか。上の2枚は四角形、下の2枚は
記録によると、42カ所あたっとの事ですが、現存しているのjが31カ所。島原藩は18カ
所、諫早藩は13カ所が確認されているそうです。辿って行くと、愛野町の中野方面まで
1,5㎞辿れるそうです。行ってみようかと思ったたのですが、イノシシの跡がたくさんあり、
蛇さんが出てきそうだし、加えて、先日無理して、島原街道の山道を歩いて、関節を痛め
(歳のせいか)思うように歩けず、今年の冬にまた来ることに。藩境石塚は初めて見たの
で感動しました。ここが、島原藩と諫早藩の境か!
なお、これが積まれたのは、島原藩、有馬晴信、諫早藩、初代龍造寺家晴のころ、約40
0年前、天正年間から慶長年間頃ではないかと考えられるそうです。
本来、まだあったのでしょうが近年畑の石に使われたり、道路工事などで何カ所かは壊さ
れたのではないのでしょうか?多分、山の中で奇跡的に残っていたのでしょう。
■ 参考:愛野町郷土誌(増補改訂版)
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