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2012年5月 1日 (火)

佐賀藩・藩境石~こんなところに(諫早市森山町唐比)  付録:唐比ハス園状況(5月1日)

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先日、諫早の郷土館で少し話をして、帰りに「郷土館だより」をもらったのですが、その中

で、佐賀藩の藩境石が唐比の天満宮の建物の基礎石に使われているとか。ほんまかい

な、と思って見にいってみました。この神社については、「唐比一周一万歩」にも取り上げ

ていたのですが、全然気づきませんでした。このこんもりした木立の中にあります。

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いって見ると、80年配のご夫婦で、神社の中を掃除中。基礎石に文字が彫ったものがな

いか聞いてみたのですが、訝しげに、「そんなものは、見たことがなか。」と言う返事。

こちらは拝殿ですがどこにも見あたらない。

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ふと、思って裏の本殿に回ったら。こんなところに。

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赤の四角の基礎石。

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確かに「從是西佐嘉領」。「これより西、佐嘉領」。「佐嘉」は今の「佐賀」です。


「佐嘉」については、「肥前国風土記」の「日本武尊、巡幸しし時、樟の茂り榮えたるを御覧

はして、勅りたまひしく、此の國は榮(さか)の國と謂うべし、とのりたまひき。因りて榮の郡

といひき。後改めて佐嘉の郡と號く。」(書き下し文)によるそうで、明治の廃藩置県の時、

県庁所在地になった「佐賀郡」にちなみ「佐賀」になったそうです。


さて、この藩堺石2本が左右に使われていました。一本の大きさが、20㎝角の、長さ3メ

ートルくらいです。

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森山町郷土誌によれば、ここ唐比名は、「江戸時代まで唐比村、・・・・島原藩との境界線

があり有喜を経由し長崎街道への重要な地域であった。」と書いてあり、唐比の小字名と

して「休屋」という所があり、島原藩主が長崎の異国船警備のためここを通るときの休憩

所であったそうす。


「ここは唐比番所(関所)もあった。」ということですから、ひょっとしたら番所あたりにでも建

っていたのを持ってきたのではないでしょうか?

ここの休屋番所跡をこの間から探しているのですが、残念ながらまだ分かりません。


さて、唐比は諫早藩と思っていたのですが、諫早は龍造寺(佐賀県)が西郷氏を下し、領

主になり、その後、諫早氏を名乗ったのですが、2代目の時、佐賀藩の家臣になっていま

す。これについては、参勤交代の莫大な出費を免れるため、2代目直孝の病弱、また佐

賀藩の思惑もあったとの諸説あるようです。


2代目直高のとき、慶長16年、佐賀本藩から七浦以東一万石を三部上地(大名が家臣

から、それぞれの知行地を三割没収すること)。元和七年三千石を上地。

九代目の行孝の時、諫早一揆が起き、減地一万石。と言うことで、諫早領ではなく「佐嘉

領」ということになるのでしょう。


なお、この神社、最初は本殿のみで、後から拝殿が建てられたそうですが、本殿が老朽化

したため、本殿を取り囲むように補強したそうです。その時、手頃にあったこの藩堺石が

使われたのでしょう。本来の場所に建っているところを見たかったところです。


参考:「森山町郷土誌」「諫早市郷土館だより第56号」「諫早市郷土館パンフレット」


付録:

唐比のハス園まだまだですが、新しい葉が出てきていました。時々写真を載せますので

御覧下さい。

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本日のおやつ。普通のショートケーキ。鯉のぼりが可愛かったので買ってきました。地元

のピュアリッツさんです。

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