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2012年4月19日 (木)

雲仙鉄道 その6~昭和2年の長崎日日新聞による★養生客と不養生客

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今日は、野菜の苗を見に園芸店へ、さすがプロとはいえ見事な花のオンパレード。きれい

な花には虫が付くとか。温泉場も同じようで・・・


肥前国風土記に「峰の湯の泉。郡の南に在り。この湯泉の源は、郡の南高来の峰の西東

の峰より出で、東に流る。流るる勢い甚多に、熱きこと余の湯とことなり。但、冷き水と和

ふるすなわち沐浴ふること得。その味ひ酢し。硫黄・白土、及和松あり。」とあります。雲仙

のことでしょうが、小浜も同じような状況だったのでしょう。


さて、新聞によると「昨年中(昭和元年)の浴客は、警察署に届出た分のみで日本人十五

萬人、外國人五萬人といふ延人員を数へ・・・・」と言いますから、警察に届けなかった人

員を入れるとまだ多かったのでしょう。交通手段が現在とは比べものにならない時代で

す。参考に平成24年1月末の基本台帳にもとずく長崎市の人口が441,466人です。


小浜までの鉄道がなかった時代、茂木からの海路をとるか、諫早で汽車を乗り換え愛野

まで、また乗り換え千々石まで。千々石から千々石登山道路を利用。なお、この、鉄道が

出来てからは海路をとる客は激減したそうです。まあ、長崎市内から茂木までも結構あり

ますから。


しかし、この時代20万人の客とはかなりの人数ではないでしょうか。特に、この中で5万

人が外人であったとは、いかに人気があったかが分かると思います。なお、雲仙が外人客

に人気があり、かなりの外人客が小浜から雲仙に流れていったものと思われます。


さて、ここから新聞記事になりますが、要約すると、最初は浴客を収容する設備はなく、付

近の農漁民が業務の閑散な折に集まって小屋掛して湯治したものが、慶長年間本多(湯

太夫)島田家両家が移り住んで浴客のために長屋を建てたのが湯町の始まり。嘉永安政

の頃は木賃宿十三軒を数え、今や大小50軒(昭和初期)の盛況を呈したと書いてありま

す。


さて、ここからが面白く、

「浴客も最初は病氣保養の人々ばかりであったが、遊覧地として、不養生の浴客も次第に

數を增し、是等不養生客の要求に應ずべく、料理屋も十五軒あり、藝妓十三人、酌婦五

十四人が紅白粉で媚びを賣つて居る。藝妓の線香代は三十分で一本で五拾䬻、都合一

時間壹圓で。紅燈の蔭に戀が咲くのは遊覧境のならはしで、従って厳重な檢黴がおこな

われている」

「不養生客」「酌婦」「線香代」「紅燈の蔭に戀が咲く」なんとも昭和初期という気がします。


今、小浜、雲仙は不景気でだんだんさびれてきています。大きなホテル、旅館も店を閉め

るところが出てきています。地元は必死で努力をしていますが、また、昭和初期のような活

況を呈してくれればいいのですが・・・

さて、新聞記を中心に6回書いてきましたが、新聞に載っていることは大体書きましたの

で、新聞記事を離れて、知ってもらいたいことがあと少しありますので、我慢してあと2,3

回、おつきあいのつきいのほどを。


島原鉄道 その1~その5はカテゴリーの「島原鉄道」をクリックしてください。




(参考:新編日本古典文学全集 小学館 訳/植垣節也)


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