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2012年4月 7日 (土)

天草四郎、小浜温泉へ~高来郡小浜村由来記から

Cimg1034

某所で、資料をあせっていたところ、こんなものが。所有者とか、来歴はよく分かりません

が、「弘化四丁未の年二月中旬書写」とありますから、写し書きしたものには間違いないで

しょう。


幸いに中身は古文書そのものではなく、書き下してあるものでしたから、私にも小浜村(現

雲仙市小浜町)のいろんな出来事が書いてあることは分かりました。読み下しは誰がした

のかよく分かりません。そんなに厚い文書ではありませんが。


最後の所に、「氏由来記一冊、岩豊蔵跡の家に有り候ところ、未正月の年始まわりの節

に、ちょっと見かけ候ゆえ借り来たり。」とありますから、原本は岩豊蔵家にあったのでしょ

う。


読んでいくと、見慣れた名前が・・・

Cimg1037

赤線の所、「益田四郎」とあるではありませんか。「天草四郎」の本名です。元和7年(162

1)江部村(現宇土市)に生まれたそうです。父益田甚兵衛は切支丹大名小西長行の家臣

です。


そのまま写してみます。


一、寛永十四年丁丑の一揆の節の小浜村様態の事。

  春二月の頃、肥後の守宇土郡、益田四郎が小浜へ入浴に参り、場所元より右庄屋支

  配。

一、四郎逗留の間、庄屋才助文武二道に達(?)し、両人学問の噺の上より、庄屋才助を

  邪宗に引き入れ、羽毛合忠衛門と申すも邪宗に傾く。

  その時分才助の妻、長々のわずらい、三会村(島原市)の金作、佛を持参し、これを拝  

  ませ、佛法沙汰より、さっそくわずらい平癒致しおよぶにつき、四月頃に四郎、金作有

  馬に参り、二月頃に右四郎、才助、金作を同道にて入浴へ参り、名苦(?)を致し候。

  湯右衛門林の間より沖八丁ほど北に浮島が見え、これを打つ者が有り候えば、四郎

  が死鳥 (?)を招き寄せ申し候につき、才助、鉄砲上手に撃ち殺し、金作を招き寄  

  せ、三人ともに 小浜に逗留し、十月上旬頃に有馬表へ参り候。


意味不明なところもありますが・・・・寛永14年は島原の乱が起こった年です。

ここに出てくる金作とは、小西長行の家臣で「さげ針金作」と言われた鉄砲名人です。吊し

た糸針の糸穴を打ち抜いた事から「さげ針金作」と名前がつけられたそうです。どうして、

島原に住んだのか不明ですが、島原の乱の最初の幕府軍の総大将、板倉重昌の胸板を

鉄砲で貫いたのも金作だといわれています。


ここで、「小浜史談」を調べると、ちゃんと出ていました。天草四郎ただ単に湯治に来たの

ではなく、実戦の経験があり、戦術も心得ていた北村の郷士、津田太郎左右衛門を引き

込むために説得に来たと記述してあります。津田太郎左右衛門は危機一髪で逃れ幕府

軍に加わったそうです。


なお、「小浜由来記」には、この後、才助が代官高橋武衛門を鉄砲で撃ち殺し、逃げおお

せた事も書いてあり、なかなか興味のあるものでした。

38061_2   

写真の画像が小さくて済みませんが、明治中旬の小浜の様子です。天草四郎が来たと

きはどんな様子だったのでしょう。


上の写真は、長崎大学附属図書館幕末明治日本古写真メタデーターベースからとったも

ので、面白い写真がたくさんありますから覗いて見てください。


なお、幕府の最初の総大将、板倉重昌派遣について、昭和44年発行の「南有馬郷土誌」

に幕府内の状況とか、大久保彦左とか柳生但馬守宗矩が出てきたり、これ興味ある方は

読んで見てください。面白いですよ。



参考:「小浜町史談」「南有馬郷土誌」「有家町郷土誌」



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