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2012年4月

2012年4月30日 (月)

カエルにタバコをすわせたらどうなるかの実験研究~岡村正孝

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小学校6年の時だったか、理科の実験でカエルの解剖というのがあり、カエルを取ってき

て、かまぼこ板に腹を上にして、手足をピンで留め、メスで腹を切って、心臓とか肺とか腸

とかの観察をしたことがあります。さすが、女の子はキャーキャー言いながら引いていたみ

たいですが。心臓がピクピク動いているのを見ると不思議な気がした思いがあります。

残酷だという人も、魚がピクピク動いている生け造りりを、「おいしい、おいしい」って食べ

ているでしょう。


いま、あんな実験をやると、残酷だといって父兄から苦情がきて、校長先生の責任が問わ

れ、新聞には載るわ、動物愛護団体からは抗議はくるわで大変でしょう。でも、当時は、ち

ゃんと文部省検定の理科の教科書で「カエルの解剖」ってのってましたから。


さて、この本、題が面白そうだったので図書室から借りてきたのですが、凄いといって、な

にせ、作者が小学生の2年生です。繰り返しますが、小学生2年の自由研究です。この本

の出版が1983年ですが、この実験に取り組んだのが1982年。今から29年前になりま

す。


この作者、カエルが好きで飼っていたそうですが、新聞、ラジオなどで煙草の害を知り、「タ

バコは、人間にとってわるいといわれている。そして、自分に害をあたえるだけではなく、

いろんなへややレストランで、煙をまんぱいにさせて、ほかのひとにも害をあたえている。

タバコは、生き物にとって、ほんとうにわるいのか。」というのが実験のきっかけで始めた

そうです。


実験装置の工夫、カエルの収集、実験の試行錯誤、実験の観察、まとめ。例えば、カエル

の体重の違いによる、タバコの害の違いまで考える凄さ。しつっこく何回も書きますが、小

学生2年ですよ。読んで見てください。この論理的な考え。


大阪市長のなんとかさんとか、文部省がまた教育改革とか何とか言っていますが、この本

読んで欲しいですね。こんな子供たちを育てていくのが本当の教育なんでしょうが・・・


この研究、「学生けんび鏡観察コンクール」の文部大臣賞奨励賞を審査員が一致して推し

たそうで、それをほとんどそのまま本にしたそうです。


最近読んだ本で感動した本です。作者の岡村君、37歳になりますが、今頃どうしているの

でしょうか?


この本、廃本になっているみたいですが、図書館で借りるか、Amazonあたりで中古本が

手に入るみたいです。小さい子供を持っている方、是非読んで見てください。

最後にもう1回、小学生2年の本ですよ



2012年4月29日 (日)

この一曲~少年探偵団のうた★藍川由美

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このCD、子どもが小さかった頃買ってきたものです。


副題が「日本の童謡」となっており、「叱られて」とか「青い目の人形とか」「あの子はたあ

れ」とか定番の中に、「少年探偵団のうた」と「月光仮面は誰でしょうか?」が入っていまし

た。


「少年探偵団」、原作江戸川乱歩ですが、ニッポン放送でラジオ・ドラマとして昭和31年か

ら32年まで放送。昭和33年から昭和35年まで日本テレビが放映。東映映画も昭和30

年代に映画化。その後も、テレビとか、漫画もあったようですが、そのあたりの詳しいこと

はオタクの方にまかせて。少年探偵団は記憶では、長崎のテレビでやっていたのかな?

その頃テレビの民放は一局しかなかったので・・・


私と「少年探偵団」の出会いは映画の方でした。確か小学校低学年の頃でしたから、あま

り記憶がないんですが、映画の題が「怪人二十面相」だったかな。「少年探偵団」という題

でもやってたみたいですが。


どちらにしても、主役は明智小五郎、小林少年(子どもながらピストルを持っていました

が)と少年探偵団、そして怪人二十面相。あの頃は映画全盛で、どんな小さな町にも映画

館がありました。千々石にもあったそうです。いつもお客さんが一杯で、舞台に上がり座り

込んで見たこともありました。




少年探偵団のうた  
(壇上文雄・作詞/白木義信・作曲)


ぼ ぼ 僕らは少年探偵団

勇気凛々瑠璃の色

望みに燃える呼び声は

朝焼け空に谺する

ぼ ぼ 僕らは少年探偵団


ぼ ぼ 僕らh少年探偵団

力洋々海の色

胸も高鳴る呼び声は

真昼の空に谺する

ぼ ぼ 僕らは少年探偵団


ぼ ぼ 僕らは少年探偵団

知恵は七色虹の色

夢も膨らむ歌声は

夕焼け空に谺する

ぼ ぼ 僕らは少年探偵団


ぼ ぼ 僕らは少年探偵団

誓いは堅く鉄の色

明日を目指す歌声は

月夜の空に谺する

ぼ ぼ 僕らは少年探偵団



「勇気凛々瑠璃の色」「谺する」。読めましたか?

小学校の校歌は六年間歌いましたが、思い出せません。この歌とか、「月光仮面」とかす

ぐ歌えるんですが。不思議ですね。


ところで、「ぼ ぼ」と離して書きましたが、長崎方面では「ぼぼ」と続けて書くと、あそこのこ

とをいうんですが。小さいとき、この歌歌うとき、いつも出始めが何となく歌いにくくて・・・





2012年4月28日 (土)

隠れキリシタン像 その3~南島原市口之津町

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さて、口之津の金比羅神社に祀られている像です。場所は、吉田氏によれば「唐人町の

集落からかなり離れた高良神社の一角、金比羅神社の石祠の中に、長い間、安置されて

いた。」と書いてあったので、また、山の中かと思って地図で調べたら、唐人町には神社の

名称が、「鎭西八十カ所第17番札所」の文字だけ、多分ここだろうと思ったら、近くの目印

に、「開田公園」が。ここは、今では海から少し入り込んだところにありますが、南蛮船が

渡来した所だそうです。なお、口之津は、南蛮貿易、日本におけるキリスト教布教の地とし

ても有名です。


車を開田公園に置いて、さて、どちらに行こうかと地図を見ていたら、ちょうどジョギング中

のおじさんがいたので聞いてみたら、何年か前、この像のことでTV取材があり、有名女優

が来たたとか。詳しい場所は知らないが、多分TVで見た感じではこちらではないだろうか

と、わざわざ案内をしてくれました。


小浜と違い、山の中ではありませんでした。

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左が、「高良神社」この左側に「金比羅神社」(写真右)があります。この、神社の社殿の中

に一番上の写真の像があり、鍵がかかってはいたのですが、覗くことは出来ました。



帰りがけ、近所におばさんがいたので話をしていたら、昔はこの社殿の裏の祠の中にあっ

たのが、盗まれたのか、どこか遊びに飛んでいったのか(翼がありますから)無くなってし

まっていたのが、また、いつの間にか戻っていたとか。これ以来、社殿を作って中にいれ 

て鍵をかけたそうです。下が本来入っていた祠でしょう、何も入っていませんでした。

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さて、一昨日の小浜の像と比べると。

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違うところはありますが、基本的にはほぼ似ています。ここまで似ていると、同一人物が作

ったか、どちらかが真似をしたものか?

小浜町の隣が南串山町、そのお隣が加津佐町そして口之津町になります。昔は行き来の

交通が不便だったのでしょうが。考えれば海路もあるんですが・・・


ほかにも、西有家町に。南串山町の神社にも、こちらは修験道の天狗神に似た不動明王

ですが翼を持っているそうです。


口之津の郷土史家の方に伺いましたが、隠れ切支丹に関係あるかどうか、評価は分かれ

ていてということで、はっきりしませんでした。

島原のこの地方以外、県外にもこのような像があるのかどうか。なぜ、このような異形の

像を作って祀らなければならなかったのか?謎は謎を呼びますが、うちの近くのキリシタン

地蔵も、弘法様とよばれ、いわれを聞いても、「昔からあった。」といわれるだけですから、

真実はどこにあるのか。


この神社の横に、「鎭西八十八カ所 第十七番札所」がありました。

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こちらは、派手でありました。他の所にあったのを、祠が荒れ果てたのでこちらに移した像

もあるとか。でも、同じ所に三カ所もあると、お賽銭も馬鹿にならなくて、年金暮らしの身で

は・・・




参考:有明の歴史と風土第二十号 金比羅神社の有翼天使像とおめき村の掟/吉田安弘   

2012年4月27日 (金)

島原芝桜公園 4月27日現在~ゴールデンウィークはいかが?

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今日も昨日の続きで、口之津町の有翼の天使像を紹介しようと思ったのですが、明日か

ら連休。ちょうど、島原の病院まで行ったので、ついでに島原芝桜公園の状況を覗きに。

3度ほど行きましたが、やっと咲いていました。


これが、今年の2月19日。ボランティアの方が手入れを。

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これが、3月30日。赤色の芝桜がぼつぼつ見えますが。芝桜祭まであと数日。

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一番上の写真が今日の状況です。

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後の山が平成新山。これをバックにすると良い風景ですね。災害の時は大変でしたが。

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砂防ダムを見た風景です。さすがに凄い砂防ダムです。

まだまだ、株と株の間がすいていますが、もう少しこんもり育ったら、長崎県でも有数の芝

桜公園になるでしょう。来年がまた楽しみ。


ゴールデンウィークは天気だとか。お弁当でも持ってゆっくりいかがですか。どうせ、あちら

こちら行ってもごちゃごちゃしていますから。一日のんびりと花でも見ながら。防砂ダムの

向こう側の つつじも結構きれいで、家族揃って家族食でも。


私は、かみさんが今日もお出かけで孤食でしたが・・・

ふと、「帰りに買った福神漬けで、一人寂しく冷や飯食えば古い虫歯がまたまた疼く・・・」な

んて歌を思い出しましたが。そういえば近ごろ虫歯が痛み出したので休み明けにでも・・・


ちょいと用事で口之津町まで行ったので、港近くのお菓子屋さんで、「くちのつマドレーヌ」、

「口之津ロマン」そして「くちのつ恋石」、「くちのつ恋し」のもじりでしょうが、なかなかしゃれた

ネーミングとお味でした。

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2012年4月26日 (木)

隠れキリシタン像 その2~長崎県雲仙市小浜町

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この仏像が文字になって発表されたのは昨日書いた、吉田安弘氏の「金比羅神社の有翼

天使像とおめき村の掟」(有明の歴史と風土第二十号 平成10年刊)が初めてではない

でしょうか。氏は、口之津町の同様な天使像を「島原風土記」に紹介されたそうですが、小

浜高校の先生から、山芋掘りにきて道に迷い、金比羅社と書いた小社に出会い、石祠の

扉を開けたところ、口之津町の像と瓜二つの像を見つけ、吉田氏に連絡をしてきたとか。

吉田氏が確認に行き、その帰り、昨日書いた地蔵に気づいたそうです。


場所は、昨日の所から数百メートル離れたところです。

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まっすぐ行った所が、「山の神様」、ここから写真に写っていませんが、林道が左右に分か

れていますから左の道を行くと。赤い印の所に、長崎県の標識、「やまんかみ水源の森」と

書いてあります。もう少し行くと・・・

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今の道は歩きやすいようになっていますが、これはこの像が見つかり、表に出たために、

案内標識と木で階段を作り整備したのでしょう。前述の小浜の先生の話から推察する

と、当時はかなり森の中だったと思われます。


「金比羅さん(天狗天使像)」と書いてありますが、80歳くらいの地元のお婆ちゃんに聞い

たらに聞いたら、「天狗天使像」は学者か誰かがつけたもので、自分たちは、「金比羅さ

ん」と言っていたとか。


しばらく歩くと、山道になりますが。きつかった。

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上の岩の方に少し見えてきました。

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人が積み上げた石垣が。かなり古いものと思われます。

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前に、コンクリートで雨、風よけが作ってありますが、これは新しく昭和34年5月1日と書

いてありました。新しいといっても半世紀ばかり前のものになりますが。

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穴を掘った中に安置してありました。一番上の写真ですが、何か新しいようですが、石仏

をいろいろ見ていくと、材質、保管状態で随分違うところがあり、新しいかと思うと何百年も

前だったり、ぼろぼろになっているのが数年前のものだったり・・・


確かに鼻が高いので、天狗、羽があるので天使とつけたのでしょうが。見れば外人とも。

とにかく、キリシタンを思わせるものが2つもあるということは、この場所はキリシタンと何

か関係があるのでしょう。なお、行ったときは高校の先生が言われたという、金比羅社の

表示、石祠の扉は見当たりませんでした。なお、同じような像が口の津にあるとかいうので

見にい来ましたが。また明日。


前にも書きましたが、行かれる方は時期が時期ですからマムシに注意して。ここらは、イノ

シシも多いようですから、一人では行かないこと。





2012年4月25日 (水)

隠れキリシタン像 その1~長崎県雲仙市小浜町

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小浜町の端の方に山領という、集落があります。集落を抜けて、どんどん進んでいくと、人

家も途絶え林道になって行きます。その林道から少し入ったところに、小さなお堂がありま

す。「おばまー史跡めぐりガイドー」によると「今は森林の中に公園ができている。」と書い

てありますから(ここのことです。)、昔は、本当の森林の中だったのでしょう。


地元の方は、「山の神」とか、「水の神」(実際水が湧いています、少し離れた林道には長

崎県の小さな標柱に「やまんかみ水源の森」と書いてありました。)とかいっているようです

が、このお堂の脇に標柱には「水原神社」と書いてありました。「水」の「原」、「水源」のこ

とでしょうか?


ここには、お堂の中と、その左側に弘法大使の像があります。こちらは弘法大使さん。

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さて、問題はお堂の中の地蔵さんです。

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この地蔵さんが両手で持っているもの。

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X型の印が。これについて、郷土史家の故吉田安弘氏は次のように記述しています。「よく

見ると両手に大きい宝珠を持っていた。初めに私は聖体かと思ったが、あまりにも大きい

ので、珠の上の落ち葉を払い、みずで洗ったら上面に見事な×アンドレア十字架が彫ら

れていた。水はキリシタン信徒の生命であろう。この地蔵も又、金比羅社の天使像(注:こ

れについては、次回アップ予定です。)と同じように信仰の礼拝像であろう。然もアンドレア

十字というキリスト教の聖記号が刻まれている。ここは、人里離れた山の中の礼拝所、か

くれ切支丹の聖地であろう。」(「ありあけの歴史と風土 第二十号 金比羅神社の有翼天

使像とおめき村の掟」より)


なお、アンドレア(アンデレ)の十字架について説明しておきますが、アンドレアはイエスの

弟子であり、最後はX型に組まれた十字架にかけられ殉死したといわれ、聖アンドレアの

象徴として、X型の十字架(アンドレア十字)、魚捕りの網、魚があります。


なお、吉田氏は気づかなかったのか書いておりませんが、私が気になったのが祠の上の

印。

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今まで見たことが無く、気になっていたのですが、今日、別件で郷土史に詳しい先生の所

にいってお話を伺っていたとき、、神社の手洗いの所に蟹や魚が這っていたり、水を張る

ところがハート型になっていたら、隠れ切支丹と疑った方が良いと話をしていたら、奥様

が、「この写真、逆にするとハート型よ。」と。逆さまに見ると、「あら、本当!」

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しかも、上の方は縦線を少し伸ばすと十字架に。


なお、ハートもキリスト教のシンボルで、「ミシェル・フイエ著 武藤剛史役 キリスト教シン

ボル事典 白水社刊」によると、「心(心臓):キリスト教の伝統では、心は愛や慈悲の座

である。・・・最も愛に充ちた心とはイエスの心である。かくして、カトリック教会では、キリス

トの『聖心』」への崇拝が大いに広まり(十七世紀)、其れと同時に、槍で刺し抜かれ、茨の

冠をいただき、炎と十字架を背にした心臓という独特のシンボルが用いられるようになっ

た。」

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有名なザビエルの肖像がですが、手に持っているのは炎に囲まれた心臓(ハート)と十字

架。


残念ながら私も専門家ではないので、上のマークが他の仏教のマークに使われているか

かどうか、分からなのですが、次にアップする、ここからすぐ近くにある「天狗天使」と考え

合わせれば、吉田氏が言うように、隠れ切支丹の礼拝の場所であったのかも知れませ

ん。




2012年4月24日 (火)

日本人の知らない日本語~蛇蔵&海野凪子

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蛇蔵&海野凪子さん2回目の登場です。1回目は「日本人なら知っておきたい日本文

学」。この、「日本人の知らない日本語」。前の本より面白いこと請け合いです。私も、この

本読んで面白いと同時に、日本語をしっかりと知らないことを反省。汗顔のいたりです。


ところで、この海野凪子さん、日本語教師をしているそうですが、外国人に日本語を教え

ている中での面白い出来事、正しい日本語について、楽しみながらというか、爆笑しなが

ら考えさせられました。

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・才と歳との使い方。

・シカトの語源

・「教えて頂けますか」と「教えていただけませんか」の違い

・「ご苦労さま」は目下に、「おつかれさま」は目上の方へ。「がんばれ」は目下のひとに、そ    

 れでは目上の人には何というか?これ、私も初めて知りました。

・レストランで「ご注文の方は以上でよろしかたでしょうか。」のおかしいところ。


日本語のテストも所々に。

・開封後は早めにお召し上がりください。

・ご注文は何にいたしますか。

・ご注文の品はおそろいになりましたでしょうか。


下線の表現の誤りを正してください。ということですが、いつも聞いている言葉なんです

が、日本語も以外と難しいですね。この本、一度読んで正しい日本語を身につけましょう。

特に新しく社会人になった方は。上の問題の答え知りたい方は本を買って下さい。


ところで、馬と、自転車の正しい数え方知っていますか。「とう」「だい」じゃないんだそうで

す。これ、伊奈かっぺいさんから教えてもらいましたが、「ちゃく」だそうです。そう、「1着、

2着」って言うでしょう。


もう一冊「日本人の変な英語」という本を読んでいますが、これも読んでみて、「Thank you

very much」がもやは使わない英語だと言われては、何のために、何年も英語を勉強して

きたのかガックリしました。この本もまたいつかご紹介を。






2012年4月23日 (月)

お地蔵さん祭&弘法原~雲仙市・千々石町・吾妻町

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4月21日の土曜日は、ご近所のお地蔵さんのお祭りでした。3カ所ばかりあるのですが、

回ってみました。お接待(お参りに来た方に、食べ物や飲み物を振る舞うこと)があるとい

うことだったのですが、残念ながらちょっと遅すぎたみたい。

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上のお地蔵さんは、キリシタン地蔵といわれるものです。これについては以前書いており

ますのでご覧下さい。「キリシタン地蔵」は→こちらをクリック

いつもは、柴か花ぐらいですがこの日は、お供え物もたくさん。いつもより飾ってもらって嬉

しそうでした。

もう1カ所、こちらは普通の弘法様。岡東(おかとう)という神社の所にあります。

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昔はここでお祭りをして、「弘法原」、いまは「吾妻の里」といっていますが、ここに行って皆

で楽しんでいたそうですが、今はいっていないとか。田舎の風習もだんだん現代的に簡略

化されていくのでしょうが、何となく寂しい感じがします。


弘法原は牛の放牧をやっており、以前、千々石からも歩いてここまで来て世話をしていた

そうです。先日、歩いてみたらきつい、きつい。はやり昔の人は強かった。


吾妻の里については以前書いておりますのでご覧下さい。良いとこですよ。

あずま牧場は→こちらをクリック

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さて、弘法原には「弘法さん」の地蔵と、「さおごぜん」の像があるとか、2回ほど行って探し

ましたが、探し出せず、昨日自治会の総会があったので、訪ねてみたら私の見当違いも

良いところ。山の中まで歩いて探したのですが・・・駐車場の横の所にありました。

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こちらが「弘法さん」。以前、なくなっていたと言う話もあったのですが、戻って来たのでしょ

うか?

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すぐ横に、ブロックで囲まれた「さおごぜん」(さよ姫のことでしょう)でしょう。それと十一面

観世音。

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ここから話が少し難しくなりますが、ここは「弘法原」とはいいながら、弘法さんに関するエ

ピソードを聞いたことがないのです。また、ここは、からは遺跡が見つかっています。


「吾妻町史」に一つの見解が書かれています。

「・・・この地がかって、聖なる『歌垣』の原であったと推断する。」

「『歌垣』は同族あるいは対婚族間の、豊穣祈念の予祝をかねた、性解放の春の祭りであ

るが、見落としてならぬことは竜蛇神(蛇トーテム)がこの祭礼の軸と成っていることであ

る。」

「聖なる営みの原の中心に立てられたのはこの蛇神の象徴、神の依代としての聖木であ

ろう(私は、不規則な柱跡と目されているのはこの聖木の痕ではではないかと想ってい

る。)この、蛇神の聖木をなんと言っていたか、とこの行事を関連する呼称の謎を解きほぐ

すのは吉野裕子氏の優れた研究(『蛇』法政大学出版)の古代日本では蛇のことを「香香

(又は香)、羽羽(又は羽)と言っていた」

「この祭典は男達は雄蛇に女達は雌蛇になっての性儀であったのだ。おそら”聖木”は

『香木」』あるいは『羽羽木』『羽木』」であったろう・・」

「要するにこの地が、半島のかなり広い地域から対婚族を集めての『歌垣』の原であった

し、このことから地名の古称は『カカイハラ=香合原』であったと思う。この『香合』の漢語

「コーゴ」に、殆ど同音の仏教的類音字「弘法」を当てて、原初からの古習の実態を消し去

ったものと思われる。」

「・・・唐体制が民衆宣撫のために仏教を最大限に駆使したと唱説されている。仏教におい

て最大の覆滅・改変は古信仰・及び古習であった。」


抜き書きで分かりにくかった思いますが、興味のある方は「吾妻町史」の「『弘法原』地名

古称考」をお読みください。なかなか興味をひくものです。


本日のおやつ:「本日のスペシャルケーキ」と言う名ケーキでした。

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2012年4月22日 (日)

この一曲~Take me home,Country road(故郷へ帰りたい)★ジョン・デンバー

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今日は自治会の総会で、いつの間にか監査になっていて、監査は早く来るようにとの連

絡。大体、自治会の監査→自治会副会長→自治会々長→自治会会長会々長→市会議

員→市長→県会議員→県知事→国会議員→総理大臣。という線を狙ってはいるのです

が・・・


とにかく今日は出かけるのでざっと。

ジョンデンバー。若い人は知らないかも知れませんが、アメリカのシンガーソングライター

で、1970年代のフォークソングの代表みたいな存在でした。この曲、スタジオジブリの映

画「耳をすませば」の主題歌だったそうですが(ただし、オリビア・ニュートンジョンのカバー

曲)、私、映画見ていないので知りません。申し訳ない。


1943年生まれ、1977年に自分で運転していた飛行機事故で亡くなっています。53才で

した。優しく、温かい声で時々CD出しては聞いています。


ライナーノーツによればジョン・デンバー、日本、オクラホマ、アリゾナ、フロリダと移り住ん

だそうですが、新聞配達、皿洗い、トラックターの運転手、麦の刈り入れ、猟師までやった

そうです。


彼の、ソングブックにこう書いてあるそうです。

「・・・・ぼくは平和は争いのないこと、暴力は我々の存在の一部、生きている者すべてが僕

の兄弟だということを知りました。それから人生をわかち合える女の人を見つけました。家

を建てることの出来る土地も。そしていつか、家族とそこに住みたいと思います。僕は山

が好きです。星をみるのも、大声で笑うことも、友達と一緒にいることも好きです。でも何よ

りも好きなのは歌を歌うことです・・・・」。そんな男の子の歌です。




故郷へかえりたい

天国ともみまちがう ウエスト・バージニア

ブルーリッジの山々と シェナンド川

昔ながらの生活は 木々よりも古く

山よりも若く そよ風のように流れる


故郷へと続く道よ 僕を連れて帰っておくれ

僕のいるべき あの場所へと

ウエスト・バージニア 母なる山河

連れて帰っておくれ 故郷へと続く道よ


思い出すのは 故郷のことばかり

海など知らぬ 炭鉱の町

暗くほこりっぽい空に ぽつんと

にんじんで浮かぶお月さま 僕の目に涙


朝にはいつも 故郷の呼ぶ声に目を覚ます

ラジオを聞いても 思い出すのは

遠く離れたわが家のことばかり

町で車を走らせながら 感じたんだ

昨日のうちにも 帰っていればよかったんだ



故郷を持つ人は良いですね。

私、生まれは長崎の、昔、遊郭街丸山の隣の加治屋町。物心ついては新興団地アパート

住まい。高校出てからはしばらく東京へ。そして、今はかみさんの居る田舎住まい。30年

になり、それなりに親しくする人も多いのですが、心のどこかに違和感が・・・


私も、川と山に囲まれた、帰るべき心の故郷があればいいなと思っているのですが・・・子

どもたちに故郷づくりを。


そのためには私を総理大臣に。良い国作りますよ。(これ、ここで書くと選挙違反になるの

ですかね?)



(参考・引用:CDライナーノーツより   対訳:野村伸昭)





2012年4月21日 (土)

雲仙鉄道 その8~竿御前と山伏の墓

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今日は、雲仙鉄道跡周囲であまり目立たない所と、まったく気がつかないところ2カ所を紹

介したいと思います。ひとつは「竿御前」です。あまり標識が目立たないせいか、見落とし

が多いようです。場所は終点の肥前小浜駅から200m~300m手前から海の方へ、少し

入ったところです。目印は下の写真、赤い四角のところに標識が立っています。


一番上の写真のように両方に立派なのが立っています。右はコンクリート製、、左は木製

ですが、この木製のリアルなこと。男の私でさえ思わす頬ずりしたい感じ。コンクリーの方

は昭和47年、木製は昭和55年なっていますが、多分古くなったのを立て直したのではな

いでしょうか。木製の方は誰か、あやかろうと思ったのか、上の方がかじられていました。

(絶体私ではありません。)

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この、真ん中の石像は「さよ姫」だそうです。

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この笠を持った「さよ姫」は、この近くの山領にも立っています。


「小夜姫」「佐用姫」「さよ御前」「竿御前」いろいろ言い方があるみたいです。「道祖神」だ

そうですが、「さよ姫」にはいろいろまつわる話があるようです。北有馬にも「さよ姫」神社

がありますが、ここの話とはまた違った話のようで、松浦の有名な「作用姫」とどんな関係

があるのか?


真ん中の像、比較的新しいようで、ひょうっとしたら、右の方が元来あったやつなのかな?

よく分かりませんが・・・


さて、もう一つ絶体に見つけられないのが、山伏の墓。

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千々石から行くと、1番目のトンネルと2番目のトンネルの間、写真の赤の四角のすぐ下

の所です。最初は何かと思ったのですが。文字を見てみると。

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「改 昭和五年十一月十二日建之 小濱鐵道株式」。「改」と書いてあるには、改めてここ

に立てたということでしょうから、古くなったから立て替えたのか、別の場所にあったのをこ

こに立て替えたのか。何だろうと思って、裏(本当は表)を見るとビックリ。

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「山伏之墓」の銘。真ん中の文字は「南無妙法」までは読めるのですが、「南無妙法蓮華

経」ではなさそう。

でも、なんで小濱鐵道が山伏の墓を立てたのでしょう?ここらあたりでは、山伏の話は聞

いたことがないんですが。有明町には山伏の墓というのがあって。

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こんな感じです。


ひょうっとしたら、工事中に何かあったのかとは思ったのですが、ここの開通は昭和2年。

昭和5年に建てられたのですから開通して3年目。また、山伏は海ではなく山で修行をす

るもの。ひょうっとしたら山の中に何かないかと探したのですが、あるのは荒れ果てた畑の

石垣ばかり。


だだ、ここの道路の横の山を登ると釜山から猿葉山へ抜け、猿葉山には猿葉稲荷があ

り、雰囲気的には石に囲まれ修行には適当な場所ですが・・・


もしかしたら、有明町みたいなのがあって、工事に邪魔なので取り壊したのかな?あの時

代、文化財とか遺跡には一般的には関心のない時代でしたから。

小濱鐵道の資料があったら何か記述してあるのでしょうが、資料が全然なくて・・・

何でしょう、小濱鐵道株式会社と山伏の墓の関係は。


さて、偶然、長崎日日新聞を見つけて、雲仙鉄道のことを書き始めたのですが、ただ単に

駅名の標識を辿るだけではなく、ここの鉄道敷設の大変さ、また、周囲の話など知ってお

いた方が面白いのではないかと思い、書いたのですが、何となく話があちらこちらにいっ

て、来たことがない方には分かりにくかったと思います。こちらに興味をもって来られるとき

に、参考にしていただければと思います。


本来は、温泉鐵道(愛野~千々石)、小濱鐵道(千々石~小浜)に分けて書かなければな

らないところもあったのですが、統一して雲仙鉄道にしました。愛野~千々石間について

は、まだ、分からないところがあり、後日ぼちぼち調べて見たいと思っています。


なお、富津については別に書いておりますので、そちらをご覧下さい。

一応、雲仙鉄道はここらで終わりたいと思いますが、また、なにか新しい発見があったら

アップします。堅い話ばかりになってしまい、本当はナンパ路線でいきたいのですが、性格

が性格で困ったもんです。


●富津関係

千々石町~小浜町・汽車道・緑のトンネル・六角井戸は→こちらをクリック

愛宕山神社(雲仙市小浜町)~絶景かな絶景かなは→こちらをクリック

富津弁天公園(雲仙市小浜町)~六角井戸に来たならば・・・は→こちらをクリック


参考:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド」


雲仙鉄道その1~その7までは左のカテゴリー「雲仙鉄道」をクリックしてください。





2012年4月20日 (金)

雲仙鉄道 その7~雲仙鉄道と戦争遺跡  付録:諫早市森山図書館の牡丹

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愛野から千々石に抜ける海岸道路ですが、ここが雲仙鉄道が走っていた跡です。右手を

見ていただければ分かると思いますが、まったくの絶壁でこれが千々石断層です。今で

も、大雨、台風がくると岩が崩れ、すぐに通行止めになります。左の海の方岩がゴロゴロし

ていますが、干潮のときはもっと沖の方まで続いています。多分、線路を引くときも岩だら

けで大変だった事がうかがえます。


数十年前は、この道は草だらけで通れたものではありませんでした。整備するにあたり、

道路は愛野町と千々石町にまたがり、千々石側は諫早へ行くというメリットがあるものの、

愛野には何の利点もないということで多少もめたことがあったような記憶があります。


さて、この廃線になった鉄道跡に戦争の遺跡があります。これを知ったのは以前紹介し

た熊本の戦争遺跡研究会から出している「子供と歩く戦争遺跡 Ⅲ」でした。

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千々石の方から行くと最初のトンネル。

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この右側のフェンスが張ってありますが、横から入ると。

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このフェンスは完璧に入れませんが、中を見ると。

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岩盤を掘った跡があります。これをトンネルの中20メートルほど入ると補修した跡が分か

ります。トンネル側から、上の写真のように岩盤を掘っていったもので、ここに砲台があっ

たといいます。廃線になったトンネルを利用したものです。

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砲台の射線は千々石の海岸を向いています。多分上陸する敵に向かってのものだと思わ

れます。


もう一つ、線路とは離れますが、愛野~千々石の峠の展望所にレストランがありますが、

その下にも砲台跡の穴があり、横6m、高さ5m、奥行き4mあったそうです。近くの土産

物屋の方に訪ねたところ、子供の頃そこで遊んだことがあるとか、場所を聞いて調べよう

と思ったのですが、ちょっと入れる状態ではなく、また、機会を待ちたいと思います。

こちらの射線も海岸に向いているそうで、本土上陸決戦に備えたものでしょう。

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この、両方の砲台は第103分隊の稗田秋儀兵曹長の部隊であったそうです。


あと、富津付近の戦争遺跡については、以前書いておりますので→「戦争遺跡~額栗石

をクリックしてください。

汽車道跡の小浦バス停付近に案内板がありますが、書いたとおり、たどり着くのは困難で

しょう。

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なお、千々石の釜山にもあると書いてありますが、これは確認出来ませんでした。もっと

も、山頂に設置してあったなら、今は「千々石少年自然の家」が建っているので、なくなっ

てしまっているでしょう。


あと、雲仙鉄道とは関係ありませんが、島原半島の橘湾沿いには、南串山町京泊の港に

震洋の基地、これも以前書いていますので→「戦争遺跡~雲仙市南串山京泊漁港」をク

リックしてください。もう1カ所、加津佐の岩戸山に砲台があり、四十五口径十五糎砲」4台

が設置される予定であり、3基がほぼ完成、一門はいつでも発射が可能だったそうです。


これらの遺跡も残念ながら段々忘れられてしまう存在かも知れません。トンネルの砲台跡

はすぐに見られますので、鉄道跡を走る折はご覧下さい。


付録:

今日、諫早の森山図書館に行ったら、あちらこちら牡丹が咲いてきれいでした。

   立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 

と言いますが、昔は、うちのかみさんも・・・・

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ウォーキングロードいつもきれいです。早場米は田植えが終わっていました。

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参考:「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ」~熊本の戦争遺跡研究会編


雲仙鉄道その1~その6はカテゴリーの「雲仙鉄道」をクリックしてください。


2012年4月19日 (木)

雲仙鉄道 その6~昭和2年の長崎日日新聞による★養生客と不養生客

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今日は、野菜の苗を見に園芸店へ、さすがプロとはいえ見事な花のオンパレード。きれい

な花には虫が付くとか。温泉場も同じようで・・・


肥前国風土記に「峰の湯の泉。郡の南に在り。この湯泉の源は、郡の南高来の峰の西東

の峰より出で、東に流る。流るる勢い甚多に、熱きこと余の湯とことなり。但、冷き水と和

ふるすなわち沐浴ふること得。その味ひ酢し。硫黄・白土、及和松あり。」とあります。雲仙

のことでしょうが、小浜も同じような状況だったのでしょう。


さて、新聞によると「昨年中(昭和元年)の浴客は、警察署に届出た分のみで日本人十五

萬人、外國人五萬人といふ延人員を数へ・・・・」と言いますから、警察に届けなかった人

員を入れるとまだ多かったのでしょう。交通手段が現在とは比べものにならない時代で

す。参考に平成24年1月末の基本台帳にもとずく長崎市の人口が441,466人です。


小浜までの鉄道がなかった時代、茂木からの海路をとるか、諫早で汽車を乗り換え愛野

まで、また乗り換え千々石まで。千々石から千々石登山道路を利用。なお、この、鉄道が

出来てからは海路をとる客は激減したそうです。まあ、長崎市内から茂木までも結構あり

ますから。


しかし、この時代20万人の客とはかなりの人数ではないでしょうか。特に、この中で5万

人が外人であったとは、いかに人気があったかが分かると思います。なお、雲仙が外人客

に人気があり、かなりの外人客が小浜から雲仙に流れていったものと思われます。


さて、ここから新聞記事になりますが、要約すると、最初は浴客を収容する設備はなく、付

近の農漁民が業務の閑散な折に集まって小屋掛して湯治したものが、慶長年間本多(湯

太夫)島田家両家が移り住んで浴客のために長屋を建てたのが湯町の始まり。嘉永安政

の頃は木賃宿十三軒を数え、今や大小50軒(昭和初期)の盛況を呈したと書いてありま

す。


さて、ここからが面白く、

「浴客も最初は病氣保養の人々ばかりであったが、遊覧地として、不養生の浴客も次第に

數を增し、是等不養生客の要求に應ずべく、料理屋も十五軒あり、藝妓十三人、酌婦五

十四人が紅白粉で媚びを賣つて居る。藝妓の線香代は三十分で一本で五拾䬻、都合一

時間壹圓で。紅燈の蔭に戀が咲くのは遊覧境のならはしで、従って厳重な檢黴がおこな

われている」

「不養生客」「酌婦」「線香代」「紅燈の蔭に戀が咲く」なんとも昭和初期という気がします。


今、小浜、雲仙は不景気でだんだんさびれてきています。大きなホテル、旅館も店を閉め

るところが出てきています。地元は必死で努力をしていますが、また、昭和初期のような活

況を呈してくれればいいのですが・・・

さて、新聞記を中心に6回書いてきましたが、新聞に載っていることは大体書きましたの

で、新聞記事を離れて、知ってもらいたいことがあと少しありますので、我慢してあと2,3

回、おつきあいのつきいのほどを。


島原鉄道 その1~その5はカテゴリーの「島原鉄道」をクリックしてください。




(参考:新編日本古典文学全集 小学館 訳/植垣節也)


2012年4月18日 (水)

岩戸神社(パワースポット)のばくち穴&春祭~雲仙市瑞穂町

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今日も雲仙鉄道の続きをと思っていたのですが、ちょうど岩戸神社の「春祭」があるという

ので出かけました。もう一つ目的もあったのですが・・・


先日、瑞穂の知人と会って、岩戸神社の事を話していたら、あそこは、昔、博徒が集まっ

て博打をしていたという話があるとのこと。今でこそ、車ですぐ近くまで行けますが、昔はひ

どい山道を歩いて来ていたと聞いていたので、まさかそんな馬鹿なと思っていながらも、

「瑞穂町誌」を読んで見るとちゃんと、「ばくち穴」として記載があり、穴と聞いては・・・


再度、知人に場所を聴いたのですが、かなりの急斜面とのこと。転げ落ちないようにとの

忠告も。考えてみて、もし転げ落ちても、平日は人が来るところでないし、助けも呼べない

し、日曜日なら、まあ、人が来るのでそうしようかと思っていたら、偶然に今日4月18日が

春祭りという情報。


祭と行っても、地区の人が集まって、氏神様に祝詞を上げて、直会ぐらいですが。これなら

万が一の事があっても助けてくれる人があるなと出かけました。


町史によると、「・・・その崖の左端部に入り口が北向きにある。その洞窟を古くから『ばく

ち穴』と呼んでいる。近郷から博徒が集まり、そこに隠れて博打をしたからその名称がつ

いたものだといわれている。また原始、古代の穴居生活の遺跡か、キリシタンの隠れ場所

ではなかったかともいう。」と書いてありました。

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行って見ると予定どおり、地区の方が。これなら人が居るから万一のことがあっても大丈

夫。念のため場所を聴いてみたら、一人よく知った方がおられ、場所を確認。神社の横、

少し降りたところに2つの穴がありますが、その横から登って、頂上に出る少し前のと

ころで右に曲がった所だとか。


写真のような急な所を、途中でくじけそうになりながらも、100メートルばかり登って、右手

の崖を見ると。

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四角の赤く囲んだ所、らしく見えたので行ったら。

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確かに洞窟が。手前が少し狭いが広場みたいな感じ。

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大人が入っても10名程度。自然に出来たものではなさそうな感じ。また、博徒がとは何

となく考えにくい。隠れ切支丹については、以前「隠れ切支丹聖堂跡か?」でも書きました

が、ここも、可能性がなきにしもあらずでしょう。同じ町内ですから。あと、考えられるのは

修験道(山伏)の修行場所跡か?


ただ、この穴の左の方に写真では分かりにくいのですが、何となく人手で積んだような石

が。とにかく何かに使われいたのは感じられました。

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さて、また下っているとちょうど神主さんが来て祝詞の最中(一番上の写真)。

もちろん私も加わって。祝詞が終わると終了かと思うと、紅白の餅投げ。

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私のかみさん、どういうわけか餅が好きで、私ももらってきました。さて、帰ろうかと思った

ら、これら琴の演奏がありますとか。

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これがまた、天気は良いし、新緑の下、山奥の幽玄なパワースポットといわれる神社で、

回りが岩盤で音響が良く、お箏ととあっては最高の演奏会でした。こんな演奏会は滅多に

聴かれないでしょう。昨年も長崎から音楽家を呼ばれたとか。


なお、演奏をしている場所、神主さんがおられたので訪ねてみたら、正式には「神楽殿」と

いうそうです。岩戸神社のブログを見ると良くここをバックに写真を撮ったのを見ますが、

ここは「神楽殿」で本当の神社は上の方の写真になります。

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祭の期日です。前に来たという人と話したら、秋祭りも良かったとの事でした。私もまた来

るつもりです。


今日は、穴は見れるし、餅はもらえるし、素晴らしい演奏は聴けるし、帰ったら、かみさん

は長崎行きでいないし、最高の一日でした。


今日のおやつ。岩戸神社でいただいた紅白餅。焼いて砂糖醤油でいただきました。

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2012年4月17日 (火)

雲仙鉄道 その5~昭和2年の長崎日日新聞による★空前の難工事

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千々石から小浜まで、開通当時は、「小浜鐵道株式会社」(いきさつは 雲仙鉄道 その2

に書いています)といっていましたが、この千々石から小浜へが難工事。長崎日日新聞に

よると、「山を拓き谷を埋め空前の難工事~海に沈んで高所を通ふ日本では類なき鐵

道」。


起工式が大正12年、工事を請負に付したのが翌13年、同年4月に工事に着手。開通す

るまでに5年半。この時代、重機もなく、ひたすらに発破、スコップ、つるはし、もっこ等で

人海戦術を行ったのでしょう。新聞によると。


●ダイナマイト五万四千八百貫。一貫が約3,75㎏ですから。

 54,800×3,7=202,760㎏

●鉱山火薬二千五百貫

 2,500×3,7=9,250㎏

●雷管四十七万個

●導火線五十万尺 一尺が約0,3メートルですから

 500,000×0,3=150,000メートル


人員として昨年(昭和元年)七月三十一日までに

●土木用のの人夫延べ99,585人 ●工夫延べ人員74,469人 

●鍛冶延人員16,500人 ●その他人夫工夫5,200人


上の写真は、上千々石駅を出てすぐの所ですが、緑の線の所、土を盛り上げ土手を作り

線路を通したことが分かると思います。赤の四角の所、左右行き来出来るようにトンネル

が掘っててあります。

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この、土手を盛り上げたところ、たくさん見られます。

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赤い線のところが線路跡ですが、ここも盛り土して作ってあります。

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ここを、人間の手で盛り上げたかと思うとまったくすごい。

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トンネルは3カ所ありますが、ここの山は岩盤でですから、発破をかけ、つるはしで掘って

いったのでしょう。

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緑のトンネルといわれる所ですが、ここも上の赤い線のところで繋がっていたところを、掘

り切っていたものです。左右の岩盤を見れば、どんなに困難な工事かが分かると思いま

す。ただ、ここは岩盤が崩れやすく、以前は大雨、台風等のときは通行止めになったもの

です。

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よく見ていくと、補強の後があります。鉄道工事の時か、道路になった後かは分かりませ

んが、保線もここらあたりは大変だったと思います。


これほどの難工事ですから、資金の方も思うように運ばす、「此の資金の關係上終點は

北野に止め、湯町までは時機を見て延長する事に成ったのである・・・」


これで、なぜ小浜の温泉街まで汽車が行かなかったのか、私の疑問が解けました。なお、

終点からは「湯町との約十五間には頻繁に自動車(賃金貳拾銭)を運転せしめて連絡を

密にし、翌客の便に供する事になったが、僅かな距離であるから歩くのも決して苦痛では

ない。」と書いてありますが、諫早で乗り換え、ここでも叉乗り換え、やはり不便を感じたの

でしょう、乗り換えなしのバスの方に乗客を取られてしまします。

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最終駅です。「小濱駅」ではなく、「肥前小浜駅」になっています。これも、「木津の濱」と同

じで、「小濱駅」は若狭にあるため、「肥前小濱駅」になったそうです。

車で通るときも、少しは止まって見ていってください。いかに、凄い工事をしたか肌で感じ

られます。


「島原鉄道 その1」から「その4」までは、左のカテゴリー「島原鉄道」をクリックしてくださ

い。


2012年4月16日 (月)

2012 諫早つつじ祭り&山城案内板設置~お城のお勉強

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今日も、雲仙鐵道の続きをと思っていたのですが、下の諫早つつじ祭りのチラシが気にな

って。といっても、千々石のつつじの名所といわれるわが家(自称)ですから、つつじの方

にはあまり関心はないのですが、「山城案内板設置」の文字が目にちらちらと。この、眼鏡

橋の後の小高い所が城になります。

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城については、「曲輪」だとか、「虎口」だとか、「搦め手」だとか、話をきいてもピントこない

ところがあり、勉強がてらこちらの方に出かけました。、


土曜、日曜はイベントもあり、人が多いだろうと、今日、月曜日行ったら予想どうり。河川

の方に駐車場がありましたが、ガラガラ。つつじも色気づくのが早いのと、遅いのがあるの

か、満開のつつじ、まだ小さい蕾、いろいろありましたが、今週の土、日、各種イベントが

あるようで、ちょうど満開になるでしょう。


さて、案内板は。こんな感じで、番号が振ってありましたから順番に回ることに。

なお、上のパンフレット、クリックすれば拡大しますから下の記事の参考にしてください。

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ここから、各掲示板を要約をしますので、皆さんもお城の勉強と思って、読んでください。

このお城、今は諫早公園ですが、戦国時代伊佐早地方(諫早市)を統一した、西郷尚善

(なおよし)が作ったそうです。「高城(たかしろ)」、別名、「亀城」とも呼ばれたそうです。


豊臣秀吉の命に従わなかったため、4代目信尚は、佐賀の龍造寺家晴(初代の諫早家に

なります)に攻められ追い出されますが、江戸時代「一国一城令」でこのお城姿を消したそ

うです。


さて、最初の桜馬場、多数の馬が用意され、調教、馬術の練習場であり、戦の集合場で

「武者だまり」とも呼ばれたそうです。

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2番目の大手門です。城の表口。本丸へ通じる虎口(こぐち)に設けられた門があったとこ

ろで、厳重な作りだったと考えられています。

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3番目の折坂虎口。虎口とは、城内への出入り口のことで、狭い道という意味もあり、敵と

の攻防が繰り広げられ、攻め登る敵の勢いをなくすため、狭く急な坂と曲がり角の両方の

仕組みになっています。

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4番目の東の丸です。攻め登る敵をこの場所で待ち受け、頂上の本丸へ行かせないた

めの広場。本丸の防衛、物見などの目的で作られたそうです。

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5番目の武者走り(むしゃばしり)(帯曲輪、腰曲輪)。城の中腹を一周しています。現在は

広くなっていますが、昔は人一人が通るくらいの狭い道だったそうです。敵の様子を見て、

移動して攻撃をしたそうです。何回かこの公園来たのですが、この道知りませんでした。

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6番目の虎口(こぐち)です。本丸へと行く最後の出入り口です。戦の重要な場所で下の階

段は狭くて急にして、敵の勢いを止めます。

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7番目の高矢倉です。敵を弓で攻撃したり、見張り台として用いられたそうです。見張り台

は現在ありません。

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8番目は本丸(本曲輪)です。山城の中心となるところ。ここに高城という城があったそうで

す。山の一番上、かなりの広い広場になりますが、ここの奧に忠霊塔があって、

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この字、よく見たら、なんと「元帥伯爵東郷平八郎書」と書いてありました。ここで、終りかと

思ったらこの後、藤原明神と高城明神がありました。本明川の山下渕に大亀がいて敵が

攻めてくると、手足をのばし山を押し上げて、攻めることが出来ないとの伝説があり、「亀

城」とも言われたそうで、明神の石塔は亀の彫り物の上に立っていました。

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この後の広場に本丸の説明版が。

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ここの奧の所に階段があり、降りると9番目の搦め手(からめて)になります。

城の裏口で、殿様の逃げ道です。昔は木橋が架かっており、逃げた後切り落として追跡を

絶っていたそうです。

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10番目の空堀です。敵の侵入を防ぐため掘られた溝です。水が張られている水堀と、こ

の城のように水が張られていない空堀があるそうです。ここ確信が持てませんが、多分こ

こだと思います。いまは島原鉄道が走っています。

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11番目の土塁、石塁(せきるい)です。敵の進入を防ぐために土を積み上げた砦で、空

堀を掘るときの土で作ったそうです。

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最後の西郷井戸です。城で使う水はここからくみ上げたそうですが、西郷家と龍造寺家の

戦いの時、西郷軍の首をこの井戸で洗って、龍造寺家晴に差し出したそうです。

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城の一番上まであがると息切れしますが、これに甲冑をつけて戦いながら登るというと、

大変どころではないでしょう。


回ってみて、説明版がきちんとして回りやすく、説明も丁寧で、城の作りについても勉強に

なりました。これからは、お城のことについては少しは知ったかぶりで話も出来るでしょう。


全部回って、5000歩程度でした、お城について興味のある方は是非お寄りください。

なお、説明板は諫早観光物産コンペンション協会が作ったもので、ブログの説明はこの説

明版の要約です。本物はもっと詳しく分かりやすく良く書かれてあります。


疲れたのでおやつでも。小浜シェダムールさんの、なんだっけケーキの名前また忘れた。

ここの2階、喫茶室になっており、ケーキバイキングもやっていますが、コーヒーのみに行

ったら、隣の男が、ケーキ5個とジュース2杯とコーヒ。バクバク食っていましたが、見てい

て具合が悪くなった。

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参考:各説明版から



2012年4月15日 (日)

この一曲~はじめの一歩/ともだちに なるために★トラや帽子店

Torayabousitenn

今から20数年ほど前、「トラや帽子店」の演奏会を、長崎のNCC放送局のホール聴きに

行きましたが、どうも、なんの理由で聞きに行ったのか記憶がないんですね。


あまり、聞いたグループの名前でもないし、知っている曲もなかったし。どうせ、お客さんも

少ないだろうと思ったら、満席で、結局通路に座って聞きました。子供連れのお母さん、若

い女の人(どうも幼稚園、保育園の保育士さんかな?)がほとんどで、結構有名なんだなと

思いましたが、曲を聴けば、グループの名前は知らなくても、ああ、この曲聴いたことがあ

る、というのがあると思います。


とにかく、楽しい音楽会でした。このレコードには入っていませんが、「キャベツはキャッ」と

か、「HA!HA!HA!」とか、パワフルで、会場みんなノリノリで一緒に歌いました。


この中から、一曲選ぶとすれば難しいですね。

「世界中の子どもたちが」「ハッピーチュルドレン」「テルテルボーイズ」「誰かが星を見てい

た」「海ボウズ山ボウズ」「おじいちゃんちのカメ」「丘をこえたらおべんとう」「不思議な月夜

の音楽会」「うさぎ野原のクリスマス」「はじめの一歩」「雪男のヨーデル」「ともだちに なる

ために」。どれも良い曲ですが・・・今は四月、新しい出発の季節ですから




はじめの一歩


小さな 鳥が うたっているよ

ぼくらに 朝が おとずれるよと

きのうと ちがう あさひがのぼる

川の ながれも かがやいている


★はじめの一歩 あしたに一歩

 きょうから なにもかもが

 あたらしい

 はじめの一歩 あしたに一歩


勇気をもって 大きく

一歩 歩きだせ


信じることを わすれちゃいけない

かならず 朝は おとずれるから

ぼくらの夢を なくしちゃいけない

きっと いつかは かなうはずだよ


★くりかえし


生まれ変わって 大きく

一歩 歩きだせ



このグループ2000年に解散し、それぞれ活動しているみたいですが、もう一度聴きたい

演奏会です。

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五味太郎さんが絵を描いて、楽譜集にもなって、ギター(クラッシックの方)を習っていた

頃、買いましたが、1990年 1刷、1995年 14刷、と書いてありますから随分売れたん

ですね。


ところで、私、こちらの「はじめの一歩」も好きで、第1回から読んでいます。1989年から

連載ですが、こちらの「一歩」さん、年取りませんね。私はすっかり年取りましたが・・・・

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おまけに、私の好きな曲を。




ともだちに なるために


ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

どこの どんな人とも

きっと 分かり合えるさ

ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

同じような 優しさ

もとめあって いるのさ


★今まで出会った たくさんの

 君と君と 君と

 君と君と 君と

 これから出会う たくさんの

 君と君と 君と

 君と ともだち


ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

一人 さみしことが

誰でも あるから

ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

誰かを 傷つけても

幸せには ならない


★くりかえし




(新沢としひこ作詞  中川ひろたか作曲  増田裕子編曲  音楽監修:クニ河内)



2012年4月14日 (土)

雲仙鉄道 その4~昭和2年の長崎日日新聞による★隠れた名所/木津

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汽車道から見た木津です。日日新聞の紙面を見ると。

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四角の所に大きく木津の事が載っています。「初めて世に現はれる新名所 木津辨天」と

言う見出し。「小濱名所としては富津の辨天が随一とされて居たが、今回鐵道の開通によ

りて、隠れたる名所が初めて世に紹介さるる事となった、夫は木津で、景勝の地として豫

てより評判であったが何分交通不便のため滅多に訪れる人がいなかったのである。・・・・

木津辨天の風光は富津辨天のひでない、・・・・」。

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「木津駅」ではなく、「木津の濱」、新聞にこの事も載っていましたが、これは奈良に「木津

駅」というのがあるので、「木津の濱」にしたそうです。記念碑には「木津の浜駅」となって

いますが正規には「木津の濱」。せっかくの近代化産業遺跡に指定するなら当時のままの

文字で書いて欲しいものですが・・・


バスの停留所をみると。「木津駅跡」になっていました。

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道沿いに、デーサービスがありますが、ここは木津の保育所跡、その前は富津小学校の

分校、「木津分校」だったたそうですが、入り口の右に記念碑が、近ごろ、こんな所ばかり

目がいって・・・

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横左から「高校建設」、上から「紀念」。ここらは、小浜高校しかないはずなのですが、ここ

の職員も、木津の人にも聞いてみたのですが、誰も書いてある文字には、気づいてすらい

ませんでした。50年配の人に聞いても、小学校に行くときはすでに建ってとのこと。

なんなんでしょう?



木津には宗像神社がありますが、灯籠には文政の文字がわずかに読めました。

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宗像神社の入り口に、恵比寿様2体と、ひじき様と呼ばれる神様が祀られています。

一番左が「ひじき様」です。祠には何にも入っていませんでした。

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この「ひじき様」、「おばま 史跡めぐりガイド」によると、右側に「安政六巳未歳(1859)九

月穀旦建立」とあるそうで、残念ながら文字があるのは分かるのですが、風化して読み取

れませんでした、続けて、「志自岐権現のことであろう。穀旦は吉日のこと。志自岐権現は

小豆島移民の守護神といわれている。」と書いてありました。島原の乱後、無人になった

村に小豆島から移民させられた事は事実なのですが、こんな所まで来たのでしょうか。

なお、ここには「丹波構え」という家の作りがあり、数軒の家をぐるりと一囲みし門も一つに

してあるそうです。

壇ノ浦の合戦の平家の落人が隠れ住んだと名残であるといわれています。

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50才くらいと70才くらいの人が話をしていたので、「平家のご子孫であられますか。」と聞

いたところ、一笑にされました。なお、「丹波構え」について聞いたところ、以前はこの道の

所まで浜辺であったとか。単なる波よけではないかと言われましたが、私も専門家ではな

く、良く分かりません。

ここの恵比寿様は実にいい顔をされていますので、時間があったら見にいってください。



参考:「小浜町史談」「あばまー史跡めぐりガイドー」


2012年4月13日 (金)

雲仙鉄道 その3~愛津駅はここだった

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今日は長崎日日新聞の記事を少し離れます。

愛野村(現雲仙市愛野町)とは、明治22年、旧愛津村と野井村が合併し愛野村となった

ものです。雲仙鉄道の線路を辿ってみると、この愛津駅から終着の愛野駅までの経路が

どうにも分からない。


買い物ついでに、確認しようとウロウロしていたら、ちょうど80年配の年寄りの方がいた

ので声を掛けたら、何となく怪訝そうな目で見られましたが、汽車道と言ったとたんに嬉し

そうに教えてもらいました。7~8才のとき廃線になり、線路処理のトロッコに乗って遊んだ

とか。


愛津駅はこの道沿いにあったと思っていたのですが、本当はこの後ろの畑の中ににあっ

たそうです。畑の中に駅の標識立てて欲しかったですね。邪魔でしょうが。

ですから車で走っている道路、正確に言えば汽車道ではないということです。

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後ろの畑の中を通り、赤で囲んだ所に自動販売機が。ここから左に曲がっていたそうで

す。

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ただ、ここは家が建っており行き止まりになっていました。

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この道沿いに少し行くと左に入る道がありますから、そこをいくと、下の写真のような感じ。

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ここを向こうから、入ってきましたが、手前に走ると川沿いに出ます。右の建物の裏側が

川になります。

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赤で囲んだ所が、自動販売機があったところの家でしょう。回れ右をすれば川沿いの道。

多分この道が汽車道でしょう。

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ここをまっすぐ行くと、国道にあたりますが、国道を横切ると短い橋が。橋を渡たると右カ

ーブ。島原方面になりますが、昔は少し道が違っていて、諫早方面から島原、小浜方面に

行く時はこの橋は使ってなかったはず。ひょうっとするとこれが鉄橋だったのかな?

写真右の方が右カーブになりますが、直線で行ければ愛野駅になります。今は、倉庫、家

などが建ってまっすぐは行けませんが。


もしかしたら、当時は家も何にもなく、汽車は愛野駅まで直進していたのかも知れません。

ここらあたり、また、しつっこく調べたいと思います。当時の地図が手に入ればすぐ分かる

のですが、探してはいるのですが出てきません。

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さっき書いた昔の道路。

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左右に橋がありますが、左の道路が、今、皆さんが使っている道路。写真手前の方向に

行くと、島原、小浜の別れ道になります。さっきの短い橋があります。


昔は、右の橋を使っていました。手前の方向に走ると島原と小浜の分かれ道。島原と小

浜へ行く車がいつも渋滞していたので左の道を新しく作ったのです。

この、古い橋今は通行止めになっています。遺構が好きな方は見物ですよ。


雲仙鉄道の跡を走ってみたいかたは、何かの参考にしてください。


さて、今日は漢方のお医者さんの所へ。いつもは満員なのに、今日は待っている患者が

奇跡的にたった一人。お医者さんと話をしていると、最近もTVで漢方の番組があり、問い

合わせがかなりあったとか。漢方は魔法じゃないんですがねと言われていましたが・・・


帰りは、ちょうど昼時になったので・・・お一人様昼食会でした。

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ご馳走様でした。おいしかった



雲仙鉄道 その1は→こちらをクリック

雲仙鉄道 その2は→こちらをクリック


まだまだ雲仙鉄道続きますよ。線路は続くよどこまでも・・・・


2012年4月12日 (木)

雲仙鉄道 その2~昭和2年の長崎日日新聞による★2つの鉄道/5箇村の思惑

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昨日の続きになりますが、愛野~小浜まで2つの鉄道会社、愛野~千々石の温泉鉄道、

千々石~小浜への小浜鉄道がありますが、どうしてこの2つの鉄道会社があったのか。

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「鐵道が敷設さるる迄/島原鐵道の豫定線・・立ち消えになつた愛濱電鐵・・・/五個村聯合

の分裂」、何となく週刊誌みたいな感じですが、これについての内情は郷土誌にも載って

ないので紹介してみたいと思います。全文長いので概略になります。


なお、島原半島に詳しくない方は、上の地図を参考に。緑の枠は島原鉄道が通っている

町です。今回の話題は赤い枠で囲んだところです。なお、この地図は島原歴史懇話会発

行の島原半島大字小字地名集覧に付いている地図からとったものです。興味のあるかた

はクリックすると拡大しますからクリックしてみてください。


さて、新聞の概略です。少し長くなります。

当時、島原半島に都会は、島原が第一、これに続いて温泉郷たる小浜。諫早~愛野まで

の鉄道を島原へ伸ばすか、小浜へ伸ばすかには相当議論があったが、建設費と収益の

問題を研究したが、客の多少より、工事の難易から島原に決定。後日、小浜まで敷設を。


千々石、小浜、串山方面の各村は、他日敷設することを望み、発言権を得るため、島原

鉄道の株式をかなり買ったが、愛野~小浜間は難工事で莫大な公費を要し、工事の運び

に至らず「島鐵では全く匙を投げ出した形であった」。


そこに大正七、八年「島原水電」(注1)の高見氏が電鐵を敷設したら資本金も多く要しな

いだろうと提唱。貨物より人を主とするので電鐵が適当だろうと提案。「愛野、千々石、小

濱、北串山、南串山の五箇村の有志が再三會見して義を進め、茲に愛濱電鐵なるものが

生まれた」。


ただし、あまり力こぶの入れ方が足らず、また、当時、好景気時代で物価労銀が高騰し、

工費も高価になるため、「當局も前途多難を危ぶみて不許可の指令を下したのであっ

た、これを機會として千々石村が脱退したので、五箇村聯盟が分裂」。


しかし、「千々石村有志はひそかに義を進めて愛野村有志と共同し愛野から千々石まで

の温泉鐵道を計画した」。株式を募集し、小濱まで延長する意向を漏らしたので、関係町

村は義務的に応募したのみ。


千々石まで鉄道がのび、もう一歩ということで小浜側が交渉したが、千々石~小浜間は難

工事。加えて経済が反動期に入り、資金調達が困難で「他日機会があったら延長すると

躰よく刎ねられた」。このため「小濱側は獨力をもって萬難を拝して鐵道を敷設せねばなら

ぬ破目になり、所謂窮鼠猫をかむという必死の勇気を鼓して小濱鐵道を計劃するにいた

った」


しかし、短距離に2会社があるのは不利であると、当時の渡邊知事が調停を試みたが、

「愛濱電鐵流産依頼の經過があり、双方とも意気地になっているので折り合わず、續いて

平塚知事時代に補助金が縣議會で議せられた機會に重ねて調停が行われたが又もや不

成功となり、小濱鐵道は獨立会社会社として敷設された」のでした。


なお、乗客は諫早で乗り換え、愛野で乗り換え、千々石で叉乗り換えとなると苦痛になる

ので、協定の上、愛野~小浜まで直通運転をすることに。

ということで、短距離に2つの会社が出来たということです。なお、諫早~小浜の直通は昭

和2年から。両者は昭和8年に合併し、雲仙鐵道と改名をしました。


注1、当時電力は事業者がいろいろあって電力を供給していたみたいです。

   長崎県は九州電灯鐵道、島原水力電気、厳原電力、平戸電力等、供給している者1   

   2、電気鐵道を経営1等々20ばかりあったそうです。


まあ、いろいろあったんですね。私の人生みたい。


ところで、今日地産地消の店で買い物をしていたら、知り合いの女性から声を掛けられ、

丁度昼飯時で、今日は珍しく、いつものCOZYでお二人様昼食でした。楽しかったかっ

て?知り合いの女性というのがなんと、かみさんでしたから・・・帰りにお口直しに「ドラえも

んケーキ」を買ってきて一人で食べました。

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雲仙鉄道 その1は→こちらをクリック



2012年4月11日 (水)

雲仙鉄道 その1~昭和2年の長崎日日新聞による★口之津鉄道株式会社

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偶然、昭和2年の長崎日日新聞の小浜鉄道開通時の記事を見つけました。記事といって

も、一面全面記事です。

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以前から、この鉄道には二つの疑問がありました。一つは、この短区間(愛野町~小浜

町)になぜ、2つの会社があったのか。後で合併をしますが、大正12年開通の温泉鉄道

(愛野町~千々石町)、昭和2年開通の小浜鉄道(千々石町~小浜町)です。もう一つの

疑問は、なぜ鉄道が温泉街まで行かず、手前の北野までしか運行しなかったかです。


この新聞を見ると、やっと疑問が解けました。特に前者には、郷土誌にも載ってない、当

時の愛野、千々石、小浜、北串山(現雲仙市小浜町)、南串山の駆け引きがあったよう

で、詳しく書きたいのですが、今日はアルバイト。老人クラブ(私、まだ年齢が足りずに入っ

てませんが)の総会資料の作成のため、後日書きたいと思います。


また、この路線のことは良くブログに載っていますが、駅跡の駅名の看板写真ばかりが多

く、地元としては、もう少し気をつけて見て欲しいところもありますので、それも合わせて、

飛び飛びになると思いますが、書いていきたいと思います。


この新聞、もう一面鉄道開通祝いの紙面があります。

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これを見ると、当時、旅館組合に入っている旅館が47軒ですから、この頃から、かなりの

有名温泉だったと言うことが分かると思います。


さて、この新聞のお祝いの紙面で、鉄道関係が、島原鉄道株式会社、温泉鉄道株式会

社、今回開通の小浜鉄道株式会社、そして口之津鉄道株式会社の社名が。前の3会社

の名前は知っているのですが、口之津鉄道株式会社は初耳。


調べると、大正2年島原鉄道が諫早から島原湊(現南島原)全線開通。その後大正8年口

之津鉄道株式会社が設立(最も社長は植木元太郞、島原鉄道の社長です。何のために

別会社にしたのか?)、大正11年島原湊から堂崎(現南島原市)、昭和3年に加津佐まで

全線開通、昭和18年に島原鉄道が口之津鉄道を合併しています。なお、平成20年に島

原外港から加津佐まで廃線になっています。


しかし、昭和2年にこの島原半島に4つも鉄道会社があったとは初めて知りました。当時

の新聞を読むと面白いですね。いろんな事が見えてきて。


さあ、アルバイト、アルバイト




2012年4月10日 (火)

中国嫁日記/第2巻~買っちゃいました

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中国人嫁日記、第1巻を買って笑い転げていましたが、この手の本は2巻、3巻となってい

くとパワーが落ち、マンネリ化するので買うこともないだろうと思っていたけど、パラパラと

読んでいくと面白かったので、また、買っちゃいました。


中国といえば、私も行ったことがあるんです。日中国交正常、時の首相は田中角栄でした

が、九州各県合同で「日中友好九州青年の船」ということで、九州の青年を中国に派遣し

ていたのです。

私は、団員でなく、役員で出張旅費までもらい、しかも、女子の班の班付き役員。

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若かりし頃の私も写っていますが、良かったですね。美女に囲まれて。

このときは、鹿児島~瀋陽~天神~北京と、昭和54年のことでしたが、2週間ほどまわり

ました。

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旅大港についたときの歓迎風景ですが、この青年の船が第8回とあって、歓迎も随分縮

小されていたみたいでした。


上の写真の横の方で、ビルを建てていましたが、足場を建てて、人海戦術で一枚一枚煉

瓦を積み上げて、しかも、歓迎式典が終わるまで、仕事をやめて、皆こちらを見ていて、

この国、こんな事で大丈夫かなと思いましたが、今や中国に追いつかれしまいました。

もちろん当時は中国人との国際結婚などは考えられもしませんでしたし、このときは自由

化といっても、まだ、ビルの屋上から写真は撮るなとか、他の所も写真撮影を制限されま

したが。

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万里の長城には驚きました。でも、私たちが行ったときは、日本人客(○○農協の目印の

小旗が目につきましたが)と中国人の新婚旅行で満員状態でした。でも、これ本当に人

間が作ったんですかね。山のずっと向こう側まで続いて、見えないほどでした。


さて、近頃、三国志、水滸伝、史記など読んでいますが、中国人の駆け引き、悪く言えば

謀略は、昔から凄いですね。日本外交は、どうあがいてもかなわないでしょう。


閑話休題、この本の月(ゆえ)さん(26才)、とジンサン(40才)相変わらずの性格の違

い、国の考えのすれ違い、面白いですね。でも、月さんの作文(47頁)とか、この本のため

に書き下ろした「中年男と中国娘 2」の最後の所は、少しうるうるときました。月さんのお

父さんお母さんも出てきますが、ユニークで面白いですよ。読んで楽しい本です。読んでな

い人は是非読んでね。第3巻出たらまた買いますよ


月さん、ものすごい美人で、性格も良いみたいですが、あの頃の中国の方、みんなスッピ

ンでしたが、確かに中国の娘さん美人が多いですね。

私もあのとき、誰か良い子を見つけて連れてくればよかったな。

(写真は「日中九州青年の船第8回」アルバムより)




2012年4月 9日 (月)

隠れ切支丹洞窟聖堂跡か?~マッド(松蔵?)が岩(伝六穴)★(雲仙市瑞穂町)

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島原半島の切支丹と言えば、北有馬町、有家町、西有家町等を中心にした所が有名で、

半島の反対側、愛野町~有明町までは、あまり話題にのぼることがありません。


先日、瑞穂町誌を読んでいたところ「マッド(松蔵?)が岩。(伝六穴ともいう)という」、とい

う記事があり、穴ときけば居ても立ってもおられず。すぐ急行。場所は書いてあるのです

が、地図にも載ってないような小字名。とにかく、田代原に行く道、三叉路の杉林とのヒ

ントで、あたりをつけ、入ってみたらビンゴ。ここは、穴の上の林を抜けたらすぐに国道。


さて、近頃、山にはイノシシが多く、この間罠にかかったイノシシを見たばかりでおそるお

そる覗いたら、

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なにやら、普通の洞窟ではなさそう。人手で彫ったことは一目瞭然。入り口は上から落ち

てくる土で、狭くなっている。

それでは穴に挿入ではなく突入。入ってみてビックリ。

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祭壇のようなもの、小さな穴が数カ所。穴の中は私が入っても十分立てるので、170~1

80㎝程度か。左右14~15メートル程度。下の土を見ると、イノシシの足跡。

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なにやら分かりませんが、絵みたいなのを描いた跡。自然に出来たものではなさそう。

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子供が入っていたずらに描いていったのかと思ったのですが、どうにも違う感じ。道が整

備されるまでは、林の中だったはず。近頃の子供は、こんな林の中には来ないでしょう。

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写真右の方、なにやら置けるようにきちんとした、四角の台が。

外には、人が組んだ石垣。

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瑞穂町史には、切支丹との関係をにおわせて書いてありましたが、とにかく何らかの宗教

的雰囲気はぷんぷんとしていました。


消去法で考えると、面白半分、暇つぶしで作ったはずはなし。防空壕でないことは明らか。

ここ、島原半島雲仙は修験道の場所であるが、修験道は自然の岩の洞窟あたりで修業を

するもので、自分で穴を掘ってこのような場所で修業をするはずはない。

他に、このようなところで儀式をする宗教は、島原半島では聞いたことはない。だとすれ

ば、あと残るのは、禁教後のこちら方面の隠れ切支丹の聖堂だったのか。(ここの台、穴

の中にキリスト、マリア像などを飾ればまさに聖堂と言う感じでした。)

はやり、こちらの方面にも島原の乱には加わらなかったものの切支丹の影響はあったの

でしょう。


近所の人にも、この穴の存在は知っている人もおり、切支丹関係ではないかとの話であっ

たとか。また、瑞穂町町史によれば、「以前は実際に仏像か何かがあったという。」とい

う記述もありました。


正式な調査はやってないようでしたが、穴の上の土が崩れ落ちそうで、せっかくの遺跡。

調査をして保存して欲しいものです。

町村合併になり、各町に残る史跡、遺跡の調査等なおざりになっている感じが否めませ

ん。ここは、整備保存すれば、大きな観光資源ともなりうるのですが・・・




2012年4月 8日 (日)

この一曲~時代おくれ★河島英五

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40才になるとき、マラソンでいえば折り返し地点で、これからゴールに向かうんだと思う

と、何とも複雑な気持ちでしたが、いまや、競技場へのゲートをくぐってもうすぐテープを切

っておしまいかと思うと、結局理想とする人間にはなれず、人生反省ばかりの今日この頃

です。


この曲が好きで、こんな男になりたいとおもっていたのですが・・・何度も聞き返しました

が、生まれ変わっても、なれませんねこんな男には。

何回か、ブログで少し触れたことがありましたが、改めて・・・・



時代おくれ

一日二杯の酒を飲み

さかなは特にこだわらず

マイクが来たなら 微笑んで

十八番を一つ 歌うだけ


妻には涙を見せないで

子供に愚痴をきかせずに

男の嘆きは ほろ酔いで

酒場の隅に置いて行く


♦目立たぬように はしゃがぬように

 似合わぬことは無理をせず

 人の心を見つめつづける

 時代遅れの男になりたい


不器用だけど しらけずに

純粋だけど 野暮じゃなく

上手なお酒を飲みながら

一年一度 酔っぱらう


昔の友には やさしくて

変わらぬ友と信じ込み

あれこれ仕事もあるくせに

自分のことは後にする


ねたまぬように あせらぬように

飾った世界に流されず

好きな誰かを思いつづける

時代おくれの男になりたい


♦くりかえし



作詞、阿久悠さん、さすがに良い歌詞を書きますね。

この中で私にもピッタリ通じる所が、「好きな誰かを思いつづける」。思いつづけているだけ

ですが・・・


国見町の淡島神社にちょっと寄って見ました、桜は散りかけでしたがまだきれい。日曜日

でもあり、花見客も結構多い。有名なミニ鳥居、くぐり抜けると安産とか

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本日のおやつ、ロールケーキにデコレートした、「ロールなんとか」。千々石のピュアリッツ

さんです。

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こんなんばかり食ってちゃ、「時代おくれの男」にはなれないな。





2012年4月 7日 (土)

天草四郎、小浜温泉へ~高来郡小浜村由来記から

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某所で、資料をあせっていたところ、こんなものが。所有者とか、来歴はよく分かりません

が、「弘化四丁未の年二月中旬書写」とありますから、写し書きしたものには間違いないで

しょう。


幸いに中身は古文書そのものではなく、書き下してあるものでしたから、私にも小浜村(現

雲仙市小浜町)のいろんな出来事が書いてあることは分かりました。読み下しは誰がした

のかよく分かりません。そんなに厚い文書ではありませんが。


最後の所に、「氏由来記一冊、岩豊蔵跡の家に有り候ところ、未正月の年始まわりの節

に、ちょっと見かけ候ゆえ借り来たり。」とありますから、原本は岩豊蔵家にあったのでしょ

う。


読んでいくと、見慣れた名前が・・・

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赤線の所、「益田四郎」とあるではありませんか。「天草四郎」の本名です。元和7年(162

1)江部村(現宇土市)に生まれたそうです。父益田甚兵衛は切支丹大名小西長行の家臣

です。


そのまま写してみます。


一、寛永十四年丁丑の一揆の節の小浜村様態の事。

  春二月の頃、肥後の守宇土郡、益田四郎が小浜へ入浴に参り、場所元より右庄屋支

  配。

一、四郎逗留の間、庄屋才助文武二道に達(?)し、両人学問の噺の上より、庄屋才助を

  邪宗に引き入れ、羽毛合忠衛門と申すも邪宗に傾く。

  その時分才助の妻、長々のわずらい、三会村(島原市)の金作、佛を持参し、これを拝  

  ませ、佛法沙汰より、さっそくわずらい平癒致しおよぶにつき、四月頃に四郎、金作有

  馬に参り、二月頃に右四郎、才助、金作を同道にて入浴へ参り、名苦(?)を致し候。

  湯右衛門林の間より沖八丁ほど北に浮島が見え、これを打つ者が有り候えば、四郎

  が死鳥 (?)を招き寄せ申し候につき、才助、鉄砲上手に撃ち殺し、金作を招き寄  

  せ、三人ともに 小浜に逗留し、十月上旬頃に有馬表へ参り候。


意味不明なところもありますが・・・・寛永14年は島原の乱が起こった年です。

ここに出てくる金作とは、小西長行の家臣で「さげ針金作」と言われた鉄砲名人です。吊し

た糸針の糸穴を打ち抜いた事から「さげ針金作」と名前がつけられたそうです。どうして、

島原に住んだのか不明ですが、島原の乱の最初の幕府軍の総大将、板倉重昌の胸板を

鉄砲で貫いたのも金作だといわれています。


ここで、「小浜史談」を調べると、ちゃんと出ていました。天草四郎ただ単に湯治に来たの

ではなく、実戦の経験があり、戦術も心得ていた北村の郷士、津田太郎左右衛門を引き

込むために説得に来たと記述してあります。津田太郎左右衛門は危機一髪で逃れ幕府

軍に加わったそうです。


なお、「小浜由来記」には、この後、才助が代官高橋武衛門を鉄砲で撃ち殺し、逃げおお

せた事も書いてあり、なかなか興味のあるものでした。

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写真の画像が小さくて済みませんが、明治中旬の小浜の様子です。天草四郎が来たと

きはどんな様子だったのでしょう。


上の写真は、長崎大学附属図書館幕末明治日本古写真メタデーターベースからとったも

ので、面白い写真がたくさんありますから覗いて見てください。


なお、幕府の最初の総大将、板倉重昌派遣について、昭和44年発行の「南有馬郷土誌」

に幕府内の状況とか、大久保彦左とか柳生但馬守宗矩が出てきたり、これ興味ある方は

読んで見てください。面白いですよ。



参考:「小浜町史談」「南有馬郷土誌」「有家町郷土誌」



2012年4月 6日 (金)

橘神社・新春奉納揮毫12年の軌跡展  付録:橘公園の桜

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地元の人も、この事、知らない人が多いのではないかと思います。

地元の新聞を読んでいると。

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長崎県書道展副会長の書家、坂田緑楓氏が、毎年正月、橘神社新春干支の書き始めを

12年間続けて、神社に寄進しておられるとか。

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見にいったらはやり大きい。

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畳3畳分ですから、人間と比べるとかなりの大きさ。ちょうど、橘神社の世界一の門松作り

の親方(責任者)がおられたので、比較のためにモデルになってもらいました。


新聞によると、坂田氏は毎年大晦日の11時半から禊ぎをし、元旦の午前0時から書き上

げるということです。


十二支そろい踏みになったと言うことで、今回、全作品の書道展になったようです。この作

品、神社の社務所等が手狭で、展示するところがなく、神社で保管はしているそうですが、

一般には見る機会がないということで是非ご覧下さい。


会場は千々石町公民館、期間は4月6日~8日(日)、時間は10時~20時(最終日は17時

まで)。なお、8日(日)は15時から山口修・純子さんによるミニコンサートもあるそうです(入

場無料)。

十二支の作品を貼っておきますのでご覧下さい。(龍は一番上の最初の写真です。)

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付録:

橘公園の桜も散り始め、人間でいえば、自称アラフォーくらいですか。川沿いのしだれ桜

がきれいに咲いています。お弁当広げるにはもってこいでしょう。

なお、プロポーズするならこんな所も良いですよ。人も少ないし。雰囲気は良いし。

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プロポーズ はやくしてよと 花吹雪  by sugikan    おそまつさまでした







2012年4月 5日 (木)

赤岩観世音・音姫観世音~音姫観世音編・秘境の神社/雲仙市国見町

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昨日は、赤岩観音さんの事でしたが、今日は音姫観音さんの事を。

この事については、国見町郷土誌研究会が出した、「国見町の忘れられた文化財第二

集」しか資料が見当たらず、これから引用してみます。赤岩観音と音姫観音との関係です

が、赤岩神社には赤龍、音姫神社には白龍と刻んだ石碑が建っているそうですが、残念

ながらこのときは、知らずに見落としてしまいました。


赤龍は男神で、白龍は女神で、天の一角からつるんだ竜神がこの山に天降ったとして書

いてありますが、これは神話の世界の問題でしょう。

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赤岩神社に行く途中から、直接下る道があるのでしょうが、一応用心のため分かれ道まで

戻り、右手の道を。

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まったくの下り坂ですが、そんなに急な坂ではありません。10~15分程度下ります。下る

のは楽だけど、また、登るかと思うと・・・

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一番谷底になりますが、木立の中から見えました。何となく、ほっとした感じ。

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新築をしたみたいで、一番上の写真の鳥居も、昭和62年6月に有明町の方が立てられた

もの。奉納の垂れ幕には、平成23年3月の文字。新築も新築なのかな?


さて、「国見町の忘れられた文化財」から引用しますと、『特に山裾の「音姫神社」は昭和

初年頃迄信仰が盛んで、木綿織りの織子達に崇められた。通称「音姫さん籠もり」と偁し

て神詣りが続いたが、木綿織りが廃れると共にすべてが忘れ去られてしまった。その昔、

織子達に歌われていた歌が残っているので、次に紹介しよう。


音(乙)姫さんはトンコロリ トンコロリ 機を織る その布のさきはよけれども 何方つけて

着せましょう 前には「弥帆」の帆柱 後は象牙の釣船 片袖は 梅の折り枝玉手箱 玉

手箱開けてみたれば 印花布七夕寝てござる・・・・


歌詞に不明なところもあるが、文意からして音姫神社と織物との間に深い関係があると推

察される。・・・』

と書いてありますが、これが書かれたのは平成5年ですから、もう20年程度前。確認する

のは無理でしょう。しかし、これだけでも記録があるということは素晴らしいことだと思いま

した。

ただ、仏像はほとんど新しい物ばかりで

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一番左と、この写真の右の外になりますが、これが一番古い仏像でした。本来ここがど

のような場所であったのか、知りたいものでしたが残念でした。ただ、まだ信心している方

がおられる事は事実でしょう。

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なお、ここらはどうも湿気があり、マムシの気がありそうなので、これから行かれる方はご

注意を。なお、私みたいに一人で行くような馬鹿な真似はしないで、少なくとも二名では行

ってください。


付録:

イノシシを見ました。近頃山の中を歩くと、あちらこちらイノシシの罠がありますが、今日も

いろいろ山の中で調べていると、罠にイノシシがかかており、近づくと罠が破れんばかりに

暴れて、恐ろしかった。この間は、猿とすれ違うし。私としては、美女との遭遇を期待して

いるのですが。

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2012年4月 4日 (水)

赤岩観世音・音姫観世音~赤岩観世音編★秘境の神社/雲仙市国見町

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雲仙から国見町へ下る道。続に奧雲仙といわれているところですが、この道路の所に大

きな鳥居があります。

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右へ行けば雲仙、左へ行けば国見町、手前に来れば田代原になります。鳥居には、「赤

岩観世音・音姫観世音」と書いてあります。

ここには、10年ほど前写真を撮りに来たことがありますが、久しぶりにいって見ました。

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鳥居から15分程度は軽トラックでも入れるような道。この日は、雲仙岳もすっきり見え良

い気持ち。ここは、鳥甲山の中腹より少し下にある程度かな?鳥甲(とりかぶと)山は、国

見町住民の信仰を象徴する霊山であったそうです。

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ここから、赤岩観世音と赤姫観世音の分かれ道になり、道が少し険しくなります。

左に行けば赤岩観世音、右に行けば音姫観世音。

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歩くこと20分程度。まさに秘境の神社という感じです。

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崖の下の、岩穴の中に神社があります。千々石断層の続きになるのでしょう。上の方は、

鳥甲山の山頂です。一回鳥甲山に登ってこの上の方から覗いたら、とにかくおっかなかっ

た。まったくの、絶壁です。


さて、この「赤岩観世音」と「音姫観世音」何か関係があるのかと調べると、資料がなく分

からない。たしか、「殿様監視の道」という本で、祭日には賑わって、うどん屋なども出てい

た、という記憶が薄くあったのですが、国見町郷土誌にも見当たりません。


数週間調べて、やっと見つけたのが、国見町郷土史研究会の「国見町の忘れられた文化

財第二集」という14頁の小冊子と。八斗木(はっとき)小学校の先生と、他団体、機関の

方が作った「八斗木むかしむかし」という冊子。ただし、前者は主に音姫観音が主で、後者

は赤岩観音が主。


今回は赤岩神社を主に書きますが、雲仙を開山した行基が田代原に、寺や僧坊を建てた

いと願い、苦行をしたとき、赤岩観世音が願いを助けてやろうとした伝説があるそうです。


たぶん、ここの雰囲気からすると、修業道者の霊場として、赤岩観音が祀られたのでしょ

う。祭神は「武甕槌神(たけみかつちのかみ)と「経津主神(ふつぬしのかみ)」。


むかしは、地元はもちろん、ご利益が多いということで有明、島原からもお参りがあったそ

うです。鳥居の寄進者の所にも「島原市三会」の文字もありました。


さて、この観世音の命日が、旧暦3月18日で、その折りお参りする人が多く、里から酒、う

どん、おかしなどを売る店が登ってきたそうです。次の日は「千日ごもり」といい、千日お参

りをしたのと同じご利益があるということで、夜になると、ご詠歌の合唱があり、流行歌も

交わったそうです。この場所でと、信じられないことですが・・・


残念ながら、神仏分離の令により、この赤岩観音は大正4年に烏兎神社境内の岩下神社

に移されたそうです。この岩下神社も大宝年間ごろから祀られていたと口伝にあるそうで

すから、とにかく古い神社と言えるでしょう。


現在の赤岩神社は、新築され仏像も新しい物が多いようでした。こうしてみるとと時代の

移り変わりを感じます。

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こちらは岩下神社です。ご神体は鍵が掛けられ拝めませんでしたが、「岩下神社」の横の

所に「赤岩さん」の文字が書いてありました。

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時間があったら、「赤岩観世音」寄って見てください。とにかく凄いとこですよ。

あしたは、「赤姫観世音」編です。←クリックしてね。


参考:国見町郷土誌・国見町の忘れられた文化財第二集・八斗木むかしむかし





2012年4月 3日 (火)

皿山人形浄瑠璃~長崎県東彼杵郡波佐見町

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昨日、島原桜まつりで皿山人形浄瑠璃を公演していたので、浄瑠璃といえば滅多に見る

機会も無く行って見ました。

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皿山狂言は東彼杵郡の、焼き物で有名な波佐見町の皿山という、小さな集落で受け継が

れている民俗芸能です。現在長崎県指定無形民俗文化財に指定されています。


歴史的には、享保17年(1732年)の「享保の飢饉」がきっかけとなり、飢えをしのぐため

に皿山地区の人が人形浄瑠璃を思い立ち、大村藩各地を巡業し食料を手に入れてきた

という事に始まるそうですから、随分の歴史を持っているということになります。

万延元年には(1860年)「美玉座」を結成。他地方から師匠を呼んできて、技を磨いたそ

うで、各地方に出向き公演しているそうです。

人形は10㎏強。3人で操りますが、終わって挨拶をするときは皆さんぐったり。

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この、太夫さんも大変で、力一杯語り、終わったときには、肩でゼイゼイ息をしていまし

た。

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当日の、演目は「寿式三番叟」と、おなじみの「壺坂観音霊験記~沢市内より山の段」。

泣けますね。あなた知らない?日本人なら見ておきましょう。最も、私も初めて見ました

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黒子さんですが、この中に中学生(女の子)が2名。小学生5年の時からやっているそうで

すが、大人でも重労働の人形遣いをするのは大変でしょう。若い人が、地区に残る民俗芸

能を継承して行くことは、大切なことだということを感じた一日でした。私の町でも、浮流等

段々継承者が少なくなって来ています。

なお、この方々昼はちゃんと仕事(焼き物が中心)を持ちながら、練習を続けているそうで

すから、大変な事だと思います。(参考:皿山人形浄瑠璃パンフレットより)





2012年4月 2日 (月)

マイウォーキングロード~森山図書館周辺(諫早市森山町)

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森山の図書館へ本を返しに行き、ついでに、ウォーキングを。いつもお世話になっている

図書館ですが、元町長が、木造、和風にこだわり続けた方で、この図書館も出来た当初

には見学者が引きもきらずで、また、図書だけでなく、郷土の生物、植物を含め、民俗、

史跡、遺跡の情報を収集するために、学芸員まで配置していたのですが、いまはすっかり

普通の図書館になってしまいました。


木造、和風へのこだわりは徹底したもので、公民館、便所なんと消防栓の収納庫も。もち

ろん、町営(当時)住宅も木造です。おかげで地域全体が何となく落ち着いた感じの町にな

っています。

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図書館前のウォーキングロードです。いつか書いたように、ウォーキング、ジョギングする

人の足の事を考え、舗装はしていません。桜も咲いて、気持ちいいですね。

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同じ所ばかり歩くと飽きるので、ちょっと脇道にそれながら・・・・

宮中献穀米の記念碑と、すぐ近くに実際に米を作った田んぼが。

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少し行くと、立派な石垣が続いています。見事だなと思うと。「まちづくり景観資産~慶師野

の石垣通り(長崎県指定)」でした。

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ぐるりと回ると、看板があり「陣野家墓地」とあったので、この寺(六喩庵・近くの子供に

聞くと廃寺みたいな感じ。)の裏手の階段を登ってと書いてあったので。

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なんと立派な墓が・・・

森山町はご存じのように、干拓地です。看板によれば、昔、諫早藩の財政が貧弱であった

頃、干拓の先鞭をつけたのが、初代神野甚右衛門。代々、神野家は先祖の意思を受け

継ぎ、耕地の拡大に尽力をしてきたそうです。

寛文13年に(1673)万灯籠と弁財天を。宝永6年(1709)に、三代目神野与四右衛門

が、祖先の恩に報いるために、六喩庵と三重宝塔を作ったそうです。右の小さなのが、弁

財天でしょう。三重宝塔の真ん中の所にも弁財天が祀られており、何百年も前の物と思え

ないほど崩れてなく珍しい物でした。

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元の道に戻るともう田植えの準備。森山では早場米を作っているとのことで、もうすぐ田植

えでしょう。図書館に行く途中、ラグビー場(2面)がありますが、道から見えにくいので、目

立ちませんが、今日は、何校か集まって練習試合でした。高校生とはいえ、実際に見ると

迫力ありますよ。こうしてぶらぶら歩いてみれば、いろんなものがあるもんですね。

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今日も、かみさんが留守のため、桜の下で、花見弁当、花見サラダ、花見お茶を買って、

一人ゆったりと外食(本当の「そとしょく」)。


西行の和歌に

「ねがわくば 花の下にて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ(山家集)」というの

がありますが、私も花の下、負けずに一首作りました。

「願わくば 花の下にて 飯食わん 三十半(なか)ばの 美女とふたりで」

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今日のおやつ、今はやりの米粉を使ったクレープでした。


一番上の写真、森山町の某所です。近頃有名になり、普段車が少ないのですが、今日の

車の多いこと。良い桜ロードですよ。唐比あたりから山手の方に入る道です。後は自分で

探して下さい。



2012年4月 1日 (日)

平成24年・観櫻火宴スナップ~日本一の松明武者行列(雲仙市千々石町)

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3月31日、「観櫻火宴」が開催されました。天気予報によると、朝は雨が降るとか、みんな

心配していましたが、見事に外れ、良い天気でした。みんな格好良く決まっています。今年

は、「佐賀葉隠大砲隊」の方々が。

出発地点は千々石海岸、福石公園。商店街を通って、橘神社、約30分程度の松明行列

です。

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こちらは、可愛いお稚児武者の面々。私の孫も入っていましたが。

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千々石城主、大和守直員を中心として、家老町田兵七郎、木戸萬九郎ほか、家臣が脇を

固めます。大和守直員は、天正5年佐賀の龍造寺隆信に釜蓋城(橘神社裏山)を攻め落

とされ自刃しますが、この遺児が天正遺欧使節四少年の一人、千々石ミゲルになります。

詳しくは昨年8月20日、「橘神社裏山のこと(釜蓋城)」に書いていますので、ご覧下さい。

挨拶等が終わり、ホラ貝、号砲一発、弥栄(いやさか・栄えるの意味)のかけ声で全員出

発です。

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神社の階段を埋め尽くす松明。

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神社の境内で、恒例の千々石中学校吹奏楽部による、御神楽の舞。

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壇上にいるのは、今年、中学校にあがる子供です。一人ひとり、自分の名前と、決意をみ

んなの前で発表。これは、良い思い出になりますよ。皆さんの子供も来年あたりどうです

か?

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ことあと、釜蓋城の物語、稚児武者と悪役軍団のチャンバラ劇の寸劇がありました。


スタッフの裏方はほとんどボランティアの方。今年で、16年ですか。最初は、ぼちぼちした

ものでしたが、年を経るにしたがって段々大きくなってきました。橘神社の大門松と同様こ

こまで続くとは思いませんでしたが、皆さんの地域のためを思う心でしょう。

見逃された方は、来年是非見に来て下さい。というより、あなたも武者の格好をして参加し

てはどうでしょう。良い思い出になりますよ。












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