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2012年3月

2012年3月31日 (土)

この一曲~おかあさん★由紀さおり・安田祥子

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由紀さおりさん、去年はブレイクしたみたいですが、この姉妹のうた、いいですね。トークの

部分も面白いし。

でも、いまどき、童謡を歌うのは幼稚園か保育園の子どもくらいでしょう。今聞きなおすと、

懐かしい歌が多い。




お母さん

おかあさん おかあさん

おかあさんてば おかあさん

なんにも ごようは

ないけれど

なんだか よびたい

おかあさん

おかあさん おかあさん

おかあさんてば おかあさん

なんべん よんでも

うれしな

おへんじなくても

うれしいな

(西条八十作詞:中山晋平作曲)



でも、なぜ、お母さんの歌が多いんでしょう。このCDにも「母の歌」、「やさしいおかあさ

ま」、「おかあさん」(西条八十作詞)、「おかあさん」(江間章子作詞)、「パタパタママ」。内

容的にはお母さんを歌ったものも「ぞうさん」も最後は「あのね かあさんが すきなのよ」

です。「ないしょばなし」、「ねどがんせ」、「肩たたき」、「あした」、これも出てくるのはお母さ

ん。


父さんはどこへいったのでしょう、探すと、「冬の夜」、「いろりの端に 縄なう父は」があり

ますが、これは二番、一番は「絹縫う 母は」です。「グッド・バイ」がありました。でも、「グッ

ド・バイ グッド・バイ グッドバイバイ とうさんお出かけ 手をあげて 電車に乗ったら グ

ッド・バイバイ」。ああ、お父さんは「グッド・バイ」の対象でしかないのか。


私,悔しいので子供が小さいときに、替え歌を作りました。

「おかあさん おかあさんたら いいにおい」の歌があるでしょう、あの替え歌です。




お父さん

おとうさん おとうさんたら いいにおい

にんにく かじった匂いでしょ

焼酎のんだ 香りでしょ


子供に教えていたら、かみさんに怒られましたが・・・

このCD聞いていたら思い出しました。もう何十年前の事かな・・・・



2012年3月30日 (金)

しまばら芝桜公園速報~付録:皿山人形浄瑠璃のお知らせ&千々石橘公園桜情景

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島原芝桜公園最新情報4月27日現在はこちらをクリックして下さい。



今日は朝から千々石ホテル跡(昔あったんです。旅館じゃないんです、本格的なホテルが

また紹介しますが。)の写真撮りに行ったら、近所の方と一時間ほどホテル跡のことで立

ち話。昼から、「しまばら芝桜公園」が気になっていたのでそちらに行って、それから島原

の病院へ。帰りに、パワースポットの岩戸神社付近の「役の小角(えんのおづぬ・山伏修

験道の創始者)」の像を見に行ったら、途中で変なものを見つけて、そちらでうろうろ。なに

か、一日中かけずり回った感じ。


さて、「しまばら芝桜公園」ですが、以前紹介しましたが、4月1日~29日までが芝桜祭りだ

とか。準備はできていましたが・・・

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残念ながらまだまだでした。ピンクの芝桜がちらほらという感じ。

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ウォーキングや作業の人と話をすると、あと2~3週間はかかるだろうとのこと。

完全に咲くと下のポスターのようになるのでしょうが、残念でした・・・

まあ、今日は駐車料はタダだったし。4月1日からは駐車料は取られるでしょう。

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この場所が分からない方のために。

愛野から島原までグリンロードというのが通っていますので、とにかくそれに乗ってまっす

ぐ行ってください。まっすぐといっても、カーブはちゃんと曲がって。この道路、特に下り坂

の所はご注意。

ねずみ取りの名所です。私も、ねずみ取りで2回、白バイで1回捕まりましたから。さて、と

にかく真っすぐ行くと、行き止まりのTの字になります。そこに、上の写真の看板がでてい

ますから、右に曲がって5~10分程度の所です。もうしばらくして行った方が良いでしょ

う。

付録:

帰りに、女友達の所に行ったら、手は握られませんでしたが、来てねと

なんのことかと思ったら、皿山人形浄瑠璃。長崎で唯一の人形浄瑠璃。享保年間の飢饉

の時、義太夫好きの皿山の人が巡業をして、木戸銭代わりに食べ物を持ち帰ったという

のが起こりだそうです。4月1日、島原城の観光復興記念館で13時からです。彼女、役員

をやっているみたいでした。皆さんも、来てね

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千々石町橘公園の桜、完璧。軍人橋の上から眺める桜は特に見事です。

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夜桜も良いですよ。ところどころライトアップしてあります。

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「夜桜や五十半(なか)ばの片想い」

いい句でしょう。五十歳半ばでの片想い、情感がありますね。私の句ですが・・・実体験

か?野暮なことは聞かない。



2012年3月29日 (木)

七日回りの石~やっと見つけました(雲仙市小浜町雲仙)

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七日回りの石は、雲仙の国道のそば、白雲の池の近くだと聞き、いつも心がけて見ていた

のですが分からず、歩いて捜すことに。

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白雲の池に車を置いて、小浜方面へ歩いて行ったら、半水蘆という旅館(写真左)があり、

その少し先、四角で囲んだあたりの右手の林の中でした。かなり大きな石。

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歩道から見るとこんな感じ。車の中から見ても分からないはず。石の下には小さなせせら

ぎが。せせらぎの音が聞こえます。木をかき分けて行くと看板が。

ここは、地獄から離れた所。ここまで足を伸ばす人もいないのでしょう。藪の中でした。

歩道から少し入った所ですから、そんな大したこともないのですが…

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「七日回りの石」とか「七日廻りの石」とか言い方があるようです。

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一番上の写真が横から見たもの、こちらの写真が正面から見たものですが、まだ下の方

があり、せせらぎの中にあります。四角のところに、地蔵さまが置いてあります。

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この「七日回りの石」には、こんな話があります。


昔、雲仙で仏教が盛んだったころ、僧坊に息子を預けたが、はやり母親の心、長年会わ

ないと息子に一目会いたくなり、、雲仙は女人禁制の厳しい所と知りながら、幼児(赤ん

坊?)を連れて雲仙へ。当時の道ですから、今の道とは違いかなり厳しい山道だったので

しょう。まして、女性の足。

ふと見ると大きな石があり、水が流れており、幼児を置き水を飲んで休んでいたところ、幼

児の姿が見当たらない。七日七夜石の回りを捜したが、息絶えてしまった。(赤ん坊の声

は聞こえるが、姿が見当たらず七日七夜捜しまわったが、という話もあり)。女人禁制の掟

を破った罰だという哀れな話なのでしょう。母親のために地蔵様を祀ったのでしょう。


さて、今日もかみさんは留守で、雲仙からの帰りがけ、久しぶりに風の森「COZY」へ。

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あたたかいスープ(いろんな野菜入り)とオープンサンド。コーヒーを飲みながら、外の花を

見て、昼のまったりしたひと時を。

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橘神社の花まつりの準備もできたました。7~8分咲き。天気が良ければ日曜日には見ご

ろになるでしょう。なお、駐車場は普通車500円取られますから、役場の駐車場を利用し

たほうが良いでしょう。歩いても5分かかりません。

でも、毎日見ていると見あきて・・・・

2012年3月28日 (水)

白雪姫は愚かだったのか?~小澤俊夫★昔話へのご招待  付録:橘公園桜情報&観櫻火宴のお知らせ

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白雪姫の話はご存知だと思います。

継母の妃に、美しさを嫉妬された白雪姫は、小人たちにかくまわれていましたが、妃に毒

りんごを食べされられ、死んでしまいます。しかし、通りかかった王子様の熱いキッスによ

って生き返り、幸せになりましたとさ。


普通こんな感じでしょうが、グリムの初版本読んだ方はご存知だと思いますが、もう少し話

があるのですね。「007は二度死ぬ」じゃないですが、「白雪姫は三度死ぬ」。


白雪姫の母は継母でなく実母。妃に命令された猟師が命令に背き、命を助け、7人の小人

にかくまわれる。それを知った妃は、物売りのあばあさんに化け、胸紐(胸に巻く飾りの

紐)を売りに行き、結んであげるが、きつくきつく締めたため、白雪姫は息ができなくなっ

て、死んだように倒れてしまいます。仕事から帰ってきた小人がこれを見つけ、紐を切ると

生き返る。小人たちは、白雪姫に知らない人を入れないように注意をする。


次の日、白雪姫が生きているのを知った妃は、毒の櫛を作り再び売りに行き、それを白

雪姫は買い、髪をとかしてもらうが、毒の櫛を刺し、白雪姫は死んでしまう、小人たちが帰

ってきて、櫛を抜くと生き返る。小人たちは再びきつく注意をする。


白雪姫が生きていることを知った妃は、毒りんごを作り、また売りに行き、皆さんご存知の

通り死んでしまうが、白雪姫が生き生きしているので小人たちは埋葬せず、ガラスの棺に

寝かせ、それを王子が(キスをするのではなく)持って帰ろうとすると、従者がつまずきそ

のショックでリンゴが喉から取れ(いつも棺を持たされた召使が、不満を持ち、白雪姫の背

中を殴り、リンゴが取れたとの本もあり)、生き返り王子と結婚をし、幸せに暮らしました。

王妃は火で真っ赤に焼かれた上履きを履かされ踊らされ、死んでしまうまで踊りをやめさ

せてもらえませんでした。とさ。

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さて、podcastの配信で「小澤俊夫(指揮者、小澤征爾さんのお兄さん)の昔話へのご招

待」というのがありますが、このなかで「白雪姫は愚かだったのか?」という話をしていまし

た。


それは、そうでしょう。小人の注意したことは聞かない。ちょっと、疑えば物売りが妃だとい

うことが分かるのに、3度も騙されてしまいます。なんと愚かな女か。現代の「俺々サギ」の

時代だったらいいカモ。


1960年時代愚かなことを繰り返すなと言う教訓の物語だという説もあったそうですが、小

澤さんは、白雪姫が愚かだったからこそ、王子と結婚できた。もし、愚かでなく毒りんごを

食べてなかったら、一生、森の中で小人たちの世話をやいて年をとっただろう。

愚かな事を繰り返すことで、最後に幸せになるという、おおらかな人生観。親が子供がバ

カなことをやっても、暖かい目で見守ってあげるのと一緒の事でないかと話をしていまし

た。なるほど、児童文学者は見るところが違いますね。


でも、あれですが、白雪姫は幸せになりましたが、人のいうことはきかない、人にはすぐだ

まされる白雪姫と結婚した王子様は幸せだったのでしょうか。うちの、かみさんは人には

騙されないが、私のいうことは全然聞きません。こんな、私、幸せなのでしょうか?


付録:

橘公園の「桜開花基準木」開花しました。だれも、開花宣言しないので、私が開花宣言を

「橘公園の桜、開花しました。」

橋の下の桜、奇麗に咲いています。広場の方も5~6分咲き。屋台も準備OK。このまま天

気が続けば、今週末は花見に十分でしょう。

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3月31日は「観櫻火宴」~「日本一の武者松明行列」です。18時30分海岸出発式、松明

を持って商店街を歩き、20時から橘神社でイベントです。

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(参考:初版グリム童話集/吉原高志・吉原素子)





2012年3月27日 (火)

富川渓谷(長崎県諫早市)~五百羅漢(磨崖仏)  付録:大村公園の桜情報

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今日は、かみさんが、ぬり絵教室、すみません油絵教室とかで一日中留守。私も、ついで

に、大村の古本屋さんへ。

諫早を抜けて大村に行く途中に、富川峡谷に五百羅漢の磨崖仏があったのを思い出し、

ちょっと訪ねることに。


諫早は元禄12年に本明川の大水害で死者487名の死者を出し(昭和32年にも大水害

で539名の方が亡くなりましたが。)、次の年は大干害という災害をうけ大打撃を受けた

のです。


時の諫早家茂晴公が、犠牲者を弔い災害を除くため、水源の地、富川渓谷に五百羅漢を

刻むことを発願したのです。元禄17年(1701)から、藩内外より寄進を受け、元禄14年

(1701)から宝永6年(1709)に渡る9年をかけ完成しました。

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水がきれいで、本当に渓谷という言葉がピッタリの所。平日、季節外れに来るのは、私み

たいな物好き一人。おかげで自然を満喫できましたが。


さて、どこへ磨崖仏がと探したら、大きな岩が数個あって、そこにあるわあるわ。ビックリし

ました。写真で見にくいですが、磨崖仏がびったりと。全部で510体確認されているそうで

す。

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あとは、せっかく写真を撮ってきたので、びったり貼り付けますので、お楽しみを。写真は

クリックすると拡大しますから、拡大してからご覧下さい。

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よく見ると寄進者の名前でしょうか、名前がそれぞれ彫ってあります。

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こちらの岩、写真では分かりませんが、、寄進者、製作者の名前が刻んであります。

作った方の名前も書いてありました。


肥前州神代        常春寺僧

  佛師            志  元 (下絵、デザインでしょうか)

  石工   矢上村   鎌山甚兵衛

  同    田副村   森與四衛門 (田副村は田結村の事か?) 

  同            同氏軍平等

   敬 彫 刻

 五百大阿羅漢

  寛永六巳丑二月     彼岸日

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さて、森の釣り橋があるということで行って見たら、着くまでのきついこと。体力のない方は

五百羅漢だけで満足した方が良いでしょう。

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ついでに、展望台も行ってみましたが、結構眺めも良く。誰もいないし、絶好のチャンスな

んですが、二人なら。

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とにかく、良く歩きました。もう、へとへと。ここへ行くときはイラストマップを持って行くよう  

に。山を下って、一人ご飯だから、小じゃれたレストランでと思ったら、適当なところがなく、

「農村レストラン」というところに入ったら、バイキング。不得手なんですよね。バイキング。

あれこれ、取りすぎて。少し、たべすぎかな?


大村の本屋さんでしばらく喋って、いろんな情報を聞いてきました。面白かったが、良く喋

る方で、また、疲れた。でも、結構郷土誌関係が揃って、近々また行って見るつもりです。

付録:本日の昼食。大村公園の桜はまだでした。

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2012年3月26日 (月)

アライバル★ショーン・タン~この不思議な絵本

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古い本ではありません。作者がわざと古ぼけて表紙を描いたものです。

少し大型の絵本というか、絵による小説というか、どんな言い方をすれば良いのか、少し

戸惑うような本です。表紙を開けたとたんに

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こんな感じの絵が。内容はひたすらに絵ばかりで、文字はまったくありません。先日、「ユゴ

の不思議な発明」のことを紹介しましたが、あの本の、文字の頁をなくし、文字の頁を全

部絵で描いた本だと思えば良いでしょう。


一応ストーリーは、絵を追っていけば分かります。

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親子3人の父親が一人異国に行き(移民)、その出発、船旅、異国での入国手続き、言葉

の通じない不便さ、戦争、等々、そして親子の再開。絵を見ていけば、文字を読むより、物

語が分かる、というより一つ一つの絵が、いろんな事を語りかけてきます。シュールな場面

もあって、ここらは自分で空想するよりないでしょうが・・

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全編、セピア系の絵です。なにか、昔の無声映画を見ている感じ。


裏表紙の讃辞、アート・スピーゲルマン(「アウシュビッツを生きのびた父親の物語」の作

者)によるとこの本は「グラフィック・ノヴェル」だと言うことで、次のように書いています。


「・・・昨今”グラフィック・ノヴェル”への関心が高まりを見せるなか、まさに絶好のタイミング

で到着し、従来の概念を超えた極めて意義のあるスタイルを確立した。つまりそれは。イラ

ストで語られる小説(漫画ではない)であり、コミック本が生まれる以前からあったサイレン

ト映画や絵本と同じ言語を使った文字のない物語なのだ。・・・・」


とにかく、不思議な本でした。この作者の絵?イラスト?でカフカの小説を描けばピッタリの

感じがするのですが・・・・


本日のおやつ「抹茶のなんとかかんとか」。家のポピーもきれいに咲きました。

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2012年3月25日 (日)

この一曲~たまには落語を★ハンドタオル/立川志の輔  付録:桜情報(千々石橘公園:小浜とけん山)

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日曜日は「この一曲」で気にいった音楽を紹介しているのですが、落語は音楽じゃないん

ですが、まあ、固いことは言わずに、たまには落語でも。


以前書いたように、隣の家の犬のから吠えに悩まされ(鳴き始めたら2~3時間泣き続

け)、心臓はバクバクするわ、手は震えるわで、心療内科に行ったら「神経症」の診断。診

てくれたお医者さんも、犬の鳴き声で同じ症状になったことがあったとか。お互い笑いまし

たが、意外に犬の鳴き声での神経症、多いそうです。その折り、黙っていても始まらないの

で、毎日落語ばかり聞いていました。


上の、志の輔さん、NHKの「ためしてガッテン」の軽妙な司会で有名ですが、考えみれば落

語家が本業なのですね。文化後進県ではなく、文化発展途上県、長崎では、なかなか聞く

機会もなく、しかも、そのまた田舎では・・・


志の輔、立川談志の所に入門したのが1983年29才の時ですから、随分遅い入門。しか

し1984年には二つ目に昇進。随分早い昇進。立川流では50話の落語を覚え、その中か

ら談志が指定をして話をさせ、二つ目に昇進させるかどうか判断するとか。一年で50話を

覚え、合格するとは随分の努力、実力でしょう。


立川談志は立川流で家元制度であり、お茶とか、生け花とかと一緒で、弟子から上納金を

取るとか。落語界では弟子からお金を取るところはないのですが。立川談志の元、随分苦

労したそうです。


さて、CDに入っている「ハンドタオル」新作落語ですが面白いこと、面白いこと。夫婦の会

話ですが、これが絶妙な面白さ、すれ違いの会話の面白さ、聞きながら、冷静になるとわ

が家も、ひょっとしたら、こんな会話をしているんではないかなと思うところも。うちの、かみ

さんと同じ、ああ言えば、こう言う、こう言えば、ああ言う。私も考えれば同じかな?

落ち込んでいる方、是非聴いて見てください。面白くないという方、お代はお返しします。

立川流、その他、談春、談笑、志らく等、優れた落語家を出していますが、談笑の「イラサリ

マケー」も「テレビ算」(壺算の改作)面白いし、他に、「鈴々舎馬るこ」の「がまの油売り(日

本語、ハングル語、同時通訳)」、快楽亭ブラックの、こんな事衆人の前で話して良いのか

という、放送禁止になるような凄いのもいいし、三遊亭歌之介の訛りのある話もいいし、ま

あ、古典落語だけでなく、新作落語良いのがどんどん出てきていますから、機会があった

ら聞いてみてください。古典ですが、三遊亭円丈の名古屋弁の「金竹明」も凄い。


立川談志亡くなりましたが、改めて聞き直してみるとやはり旨いですね。

戒名「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」自分でつけた

そうですが、談志らしい。


桜情報:

小浜町とけん山はまだまだでした。

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橘公園の桜も、ぼちぼちと咲き始めました。昨日紹介した、しだれ桜の下では早くも、花見

の人が(風があって少し寒い感じでしたが。)。

開花基準木はまだまだ。暖かい日が少し続くと一気に開花するのでしょうが。

ところで花には陣痛てあるんですかね。蕾が膨らんで花が咲いていくのを見ると何となく、

陣痛の苦しみという言葉が思いだされるのですが・・・

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橘公園桜開花基準木(左)。これが咲くと開花宣言になります。出店もぼちぼち準備態勢に

入りそうです。

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2012年3月24日 (土)

幻の雲仙電気鉄道★長崎市~小浜町~雲仙   付録:橘公園桜情報

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この話、何かで読んでいたのですが、あまり、大風呂敷の話で信じてなかったのですが、

先日「小浜町史談」を読んでいたら、載っておりましたので、まったくのでたらめではないらしく

紹介してみます。


四角に囲んだところが、長崎市(左)と諫早市(中央)と小浜町(右)になります。明治末から

昭和初期までは小浜~長崎は船を利用し、九州商船の船(500トン程度)で、南串山町の

京泊を始発~飛子~小浜~富津~千々石(以上現雲仙市)~唐比~有喜~下釜~網場

~茂木着。それから、歩いたり、人力車に乗ったりして長崎まで行っていたそうです。


明治24年に、小浜の元庄屋本多氏が、鉄輪の一頭立て箱馬車の乗合馬車の運行を始め

たそうですが、コース等は不明だそうです。明治末期、車輪が鉄輪からゴム製になり、小浜

~雲仙の客を運んだそうですが、自動車の出現で姿を消していきます。


大正元年に自動車が始まり、小浜~諫早、小浜~口之津、雲仙~小浜~長崎を運行。来

訪客が増え、昭和10年にはバス45台、ハイヤー16台があったそうですが、昭和16年長

崎県営バスに併合されていきます。


さて、この「雲仙電気鉄道」計画されたのが、はっきりしていませんが、すでに小浜~諫早

に鉄道が通っていた時期(大正15年には小浜~愛野は全線開通)みたいですが、小浜駅

から愛野駅まで行き、島原鉄道に乗り換え、諫早駅でまた長崎本線に乗り換えるという不

便なもの(小浜~諫早直通は昭和2年)。また、国内外からのお客さんが増え、そこでこの

「雲仙電気鉄道」が計画されたもののようです。


経路は上の地図ほとんど、大ざっぱに言えば海岸線に平行に、長崎市~日見峠の隧道~

日見町~北高戸石村~田結村~江の浦村~有喜村~愛野町~千々石町~小浜町~雲

仙。また、有喜からは分岐して諫早までも計画された模様です。

電力は、千々石の水力発電を利用し、また、水力不足のため、水面積8町のため池を作

り、水路を作り発電する予定だったそうです。所要時間は長崎雲仙間を2時間20分、運賃

は1円30銭以内。

総資本金は600万円と計上され、収支概算書として、収入総額105万176円。なお、雲

仙電気鉄道株式設立のための定款も定められているようですが、残念ながら実現はでき

ませんでした。


実に壮大な計画だと思いますし、これが出来ていれば島原半島の交通、経済はまったく変

わっていたのですが、でも、何となく、いまだもってこんな計画があったなんて信じられない

話ではありますが・・・・(「小浜町史談」の中には計画者の氏名など書いてありませんでし

た)。


付録:

橘公園桜開花の基準木はまだですが、軍神橋の下の桜2,3本少し咲いてきました。同じく

橋の下のしだれ桜一本は咲きました。他のも、ぼちぼちと蕾が膨らんで、咲いているのも

少しですが見え始めました。

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桜の蕾も良し、満開の桜も良し、桜が散ればあっという間に梅雨、夏が来て、秋が来て、ま

た冬。あっという間です。少し早いけど年賀状の図案でも考えようかな。



(参考:小浜町史談)


2012年3月23日 (金)

島原城✿春うらら茶会~日米親善人形交流と島原展

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少し遅い報告になりましたが、3月20日、長崎県島原市、島原城内の御馬見所で「島原城

✿春うらら茶会」が開かれました。


さて、皆さんは「日米親善人形」って知っていますか。戦前、親日家のシドニー・ルイス・ギ

ューリックという親日家の方がいましたが、排日運動に反対し、日本のひな祭りに友情人

形を日本全国の幼稚園、小学校等に12,000体送ったのです。多分皆さんの学校にも送

られてきていると思います、長崎には214体の人形が送られてきています。島原にやって

きたのは昭和2年5月18日。


お返しとし、日本の子どもたちが募金をし、全国で58体の人形を米国に送っています。長

崎からは、「長崎瓊子(たまこ)」を送っています。

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残念ながら、戦争が起こり、この送られてきた人形は敵の人形だということで、竹槍で突か

れて壊されたり、焼かれてしまいました。


ところが、島原の第一小学校の古い箱の中から、昭和57年一番上の写真の人形が、偶

然見つかったのです。誰かが故意に隠したか、偶然しまい忘れたかは分からないようでし

たが・・・

名前が分からなかったので、子どもたちから名前を募集し「リトルメリー」と名付けられまし

た。もう一つ、エレン・Cという人形が見つかり、長崎県からは合わせてわずかですが、2体

の人形が確認されました。


さて、平成12年、アメリカの博物館に「ミス・青森人形」として保管されていた人形が、実は

「長崎瓊子」だと分かったのです。そして、平成15年「長崎瓊子~日米友情の島原里帰り

展」が開催されました。同時にボランティアによる「島原親善人形の会」が発足し、毎年「

日米親善人形交流と島原展」が開催され、今年で9年目を迎えています。学校の平和学

習などでも活動をしています。


今年の展示会は、3月15日~4月8日まで、島原城内の観光復興記念館で見られますの

で、島原城にお越しの折は是非お越し下さい。


3月20日はその一環として「島原城✿春うらら茶会」を開催。

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小学生による紙芝居、「リトルメリー物語」。中学生による、「平和学習発表会」。ゆかいな

仲間たちによるリコーダー演奏。アンコール付。お茶の接待。

今年は、しまばら国際交流クラブによる、米国語、中国語、日本語による「春を外国語で歌

おう会」も。

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中国の方も張り切って、四季の歌を。右の方は、茶会を担当した方々です。なんと2時間く

らいで500杯のお茶を点てたそうです。こうなるとお茶というより、重労働。大変でした。

年齢不詳の美女の方ばかりです。

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来年で10回目。地味な活動ですが、地方からの平和発信です。こんな活動が、各地で広

がりを持ってくると本当の平和がやってくるのでしょうが・・・ボランティアの方もたくさん参加

していました。来年も10年目に向かってがんばっていきましょう。(私も裏方を少しをやって

きましたが、裏方も意外に楽しいですね。美女に囲まれて。皆さんもどうですか?)



今日のおやつ:コラーゲンたっぷりの美白プリン

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2012年3月22日 (木)

西郷四郎(姿三四郎のモデル)と長崎その4(最終回)~西郷四郎の墓

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西郷四郎は45歳(1911年)の時結婚します。料亭「まねき」の娘「チカ」、長崎の三大美

人といわれていた人だそうです。実子はなく養子が二人あったようです。


長崎でも武勇伝を残しているようですが、柔道の指導、また、長崎遊泳協会(当時瓊浦遊

泳協会)の発足時、理事に名前を連ね、大正3年、5年には有明海横断遠泳の監督・顧問

として主導的役割を果たしたそうです。1919年(大正8年)病気療養で妻・チカの親族の

住む尾道に移住するまで、長崎を第二の故郷として幸せな日々を送ったのではないでしょ

うか。

しかし、1922年(大正11年)12月23日(一部22日の記事あり)療養先の尾道で生涯を

終えたのです。57歳。

翌年、講道館から、最初の項で書いたように六段を追贈され、4月7日長崎の皓台寺で東

洋日の出新聞の社葬として盛大な葬儀がおこなわれたそうです。

西郷四郎の遺骨は、長崎の大光寺(長崎市鍛冶屋町)の妻・チカの実家中川家に埋葬。


墓地は入り組んだようになっており、なかなか分かりにくいでしょう(私は幸せなことに墓を

知った人と出会い、教えて頂きましたが)。大光寺には日本活版印刷の先駆者本木昌造

の墓もあり、こちらには表示板があるのですが・・・・

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左が大光寺山門、親鸞の銅像が真ん中に建立してあり、立派なお寺です。右は「本木昌

造」の墓の案内板です。


西郷四郎の墓所には、三基の墓石がありました。

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左から「中川家、濱口家」のお墓、真ん中が「山田家」のお墓、多分ご血縁で同じ墓所に作

られたのではないかと思いますが・・・そして、一番右に西郷四郎の墓がありました。

墓地には、綺麗な花が供えられ、まだお線香が燃え尽きてなく、少し前に何方かがお参り

に来られていたようでした。お会いできたら、お話でも伺えればと思いましたが・・・


さて、帰って再度調べると、西郷四郎の戒名が「星光院北州達観居士」。撮してきた写真を

見ても戒名の所が写ってなく確認をしに再度墓地へ。なお、一番右の墓は、昭和44年に

諏訪体育館の顕彰碑と同時に長崎県柔道協会が建立した物でした。

どうにも、戒名が見当たらず、失礼とも思いましたが、もしやとおもい中川家の横の方を見

るとありました。

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赤の四角いところに、「星光院北州達観居士 大正十一年十二月二十三日  俗名 西郷

四郎 五七歳」。薄い文字でした(風化したものか?)。この墓、昭和16年建てられている

ようで、それまでどのように彫り込まれたいたのでしょうか。古い墓もあったはず

だと思いますが・・・


柔道協会が建てた墓は裏の方に「星光院北州達観居士  大正十一年十二月二十三日 

五十七歳  昭和四十四年十月佳辰 長崎県柔道協会建之」と彫ってありました。


西郷四郎の墓は生まれ故郷の会津にもあり、こちらはこの大光寺のお骨を分骨してある

そうです。会津の墓です。クリックしてください。

説明版には『西郷四郎の墓~明治の中頃、講道館の草創期、四天王の一人として、「山

嵐」の大技をもって一世をを風靡し名声を博しました。

その後、長崎に移り「東洋日の出新聞」の記者として大陸に渡り「辛亥革命」に関わった

「孫文」とも交流するなど幅広く活動する。

大正十一年(一九二二年)十二月二十三日、病気療養中の広島県尾道市で五十七才の

波乱の生涯を終える。

没後、富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルとして脚光を浴びたことはあまりに有

名である。

本人の遺言により、生家・志田家の菩提寺である正法寺に、長崎市の大光寺より分骨す

る。 平成十九年十一月二十三日 西郷四郎研究会』と書いてあります。


また、逝去した尾道にも「西郷四郎の碑」があるようです。


なお、西郷四郎の出自、出奔してからの足取りなど謎が多く、興味をひくところです。

夢枕獏の「東天の獅子」の後書きに、『このところ柔道はJUDOとなっている、加納治五郎

が始めた頃、頭に描いていたものとは大きくかけ離れた物になっている。治五郎自身が、

生前その頃の柔道を見て、「これは私の柔道ではない」と発言している。』と書いています。

西郷四郎の「山嵐」の時代の柔道がどんな物であったか、見てみたいのは、私一人とする

ところでしょうか。


さて、長崎は昨年、NHK大河ドラマ「坂本龍馬」一色でしたが、西郷四郎という卓越した人

物も迎えていた事を知って頂きたく今回ブログにしたものです。

誤りもあるかと思いますがお許しください。


参考:長崎遊泳協会~資料室・新聞記事・「朝日新聞福島版・西郷四郎を追って」

    長崎歴史散策~長崎学研究家:宮川雅一

    東天の獅子~夢枕獏

    各ブログから

 

2012年3月21日 (水)

西郷四郎(姿三四郎のモデル)と長崎その3~西郷四郎の新聞記事 付録:橘公園桜情報

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当時の、東洋日の出新聞です。1902年(明治35年)創刊です。このとき西郷四郎35歳。

西郷四郎の養父の甥、義理のいとこにあたる井深彦三郎という人がいますが、この人が、

鈴木天眼と親しく、この人を通して鈴木天眼と知り合ったようです(?)。

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赤で囲んだところ、発行人兼印刷人、西郷四郎の文字が見えます。


西郷四郎は、日露戦争が始まる前年、朝鮮半島に出向き、「特派員西郷四郎十一月十五

日朝鮮義州発信」の記事があるようですが、これは、残念ながら見つけきれませんでした。


辛亥革命が起こった1911年(明治44年)中国の武漢に飛んで、「武漢通信」として記事を

書いています。四角で囲ったところが、西郷四郎の記事です。

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「武漢観戦通信」西郷四郎の名前が書いてあります。

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もちろん、天眼を初め西郷四郎等、孫文の革命軍の支持者です。


「・・・南北両軍いづれも公徳を守りて其破損を避けん事に戒めたりと聞く、然れども塔内に

見れば壁は蜂の巣の如く弾痕を印し、階段には榴散弾の破片の踏みどころなき迄に散乱

し思はず慄然たるを覚ふ、・・・・」いかに、前線まで入ったか様子がうかがわれます。

「・・・黒色洋服姿に紅白木綿の襷を十時に交叉し胸間に敢死隊と書せる標章をかけたる

少壮血気の勇士(学生上がりの義兵と聞く)屯在せり、吾等其前を「辛苦々々(シンクーシ

ンクー)」と慰撫の語を掛けつつ通過すれば、彼等は如何にも満足げなる顔色にて、挙手

の礼を行ふ、而して彼等一体の気合如何にと注視すれば、孰れも昂然たる意気眉宇の間

に表れ、毫塵も意気沮喪、堕気の気配なく、確に斃れし後已むの決心あるをみとめたり。」

柔道を極めた人の目から見た、革命軍の姿でしょう(11月2日漢口からの記事)。


「・・・鉄路に(戦線区域)に出づれば死骸累々、其の悲惨惨憺たる光景は小生の拙筆には

到底能く盡す所に非ず、この死体は皆革命軍のみ、・・・・砲弾一発余等の立てる後方一

四、五間の建築物に命中し非常の響きと共に建築物に命中し非常の響きと共に建物の一

角破壊せり、ここは危険なり、命有つての物種、今茲に流丸の一ツも頂戴するならば飛ん

だ世間の笑はれ物、君子不可近危とここを退却し・・・」(10月30日の記事)随分危うい目

にも遭ったみたいです。


このとき、西郷四郎45歳です。この後1911年、45歳の時結婚しますが、1920年、病気

療養のため、尾道で病没しました。明日は、「西郷四郎の墓」についてです。


付録:今日の橘公園の桜です。

桜開花の基準木はまだ咲いていませんでしたが、軍神橋の下の桜、一本だけ少しです

が、咲き始めていました。

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2012年3月20日 (火)

西郷四郎(姿三四郎のモデル)と長崎その2~東洋日の出新聞社 付録:今日の島原城

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さて、昨日、西郷四郎の講道館からの出奔の事については書きましたが、その後を、少し

補足すると、出奔したのが、1890年。鈴木天眼が東洋日の出新聞を出したのが1902

年。西郷四郎は発行人兼印刷人として載っています。鈴木天眼は戊辰戦争で敗れた二本

松藩出身(会津藩の説あり)、西郷四郎は会津藩出身。どこかで、接点はあったのでしょ

う。


この、1890年~1902年の西郷四郎の足跡はあまりはっきりしていないようで、ウィキベ

ディアによると、「宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。」となっており、夢枕獏によれ

ば「西郷四郎は、この後、鈴木天眼たちと合流し、すぐに大陸には行けなかったもの・・・」と

なっおり、この間紹介した長崎遊泳協会のホームページ資料室の新聞記事、「朝日新聞福

島版~姿三四郎を追って」によると、「わずかな資料によれば、日露戦争とそれに伴うロシ

ア、ドイツ、フランスの三国干渉に揺れる世情の中、各地を転々とした。」と書かれていま

す。「各地」とは外地も含むのかどうかは不明です。


ただ、はっきりしているのは、西郷四郎の養子になった孝之氏によれば、加納治五郎が熊

本の第五高等学校の校長に赴任するとき、博多駅で出迎え再開したそうです。朝日新聞

によると「・・・四郎もただ頭を下げたままで止めどなく涙を流していた、と古老の話であっ

た。」手記はそう記す、と書いてありました。なお、同新聞によれば1894年に旧制二高で

柔道指南として就任したとありますが、半年で姿を消したとされているそうです。、この、長

崎遊泳協会のホームページの記事は是非お読みください。面白いですよ。


さて、上の写真が「孫文先生故縁之地」としてありますが、「東洋日の出新聞」あったところ

です。長崎でも有名な喫茶店「ツル茶ん」です(倉庫を改造して喫茶店にしたと店内の説

明にはありましたが・・・)。長崎のトルコライスで有名な所です。

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標柱の上に説明版がありますが。

写真左から、孫文、真ん中が鈴木天眼、一番右が西郷四郎。随分小柄に見えますが、身

長153㎝(151㎝、156㎝、158㎝の諸説も有り)、体重52,3㎏位だったそうです。写真

はクリックすると大きくなります。

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孫文は長崎に来るたび、この、東洋日の出新聞社を訪れていたそうです。


ここで、私と西郷四郎との鼻くそほどの接点があります。この新聞社は長崎市の鍛冶屋に

ありますが、時代は違いますが、私の生まれも加治屋町、ここから200~300メート位離

れたところでした。


腹が減ったのでついでに昼食を、ちゃんと「トルコ三四郎」もありましたが、ツル茶んライス

を。

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付録:今日の島原城。梅はほとんど散っていました。何本か花を残すのみでした。

    橘神社の桜はまだまだです。    

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2012年3月19日 (月)

西郷四郎(姿三四郎のモデル)と長崎その1~武徳殿の思い出

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先日3月1日のブログで「長崎と西郷四郎」ということで書きましたが、少し調べると私にも

少しほど、自慢するほどのことはありませんが、鼻くそほどは接点があり、調べたら意外と

面白いので、記事にすることに。

「武徳殿の思い出」「東洋日の出新聞社」「西郷四郎の新聞記事」「西郷四郎の墓」と4回に

まとめてみます。


この間書いたように、「西郷四郎」と聞いてみても意外と知らない人が多く、「姿三四郎」と

いえば分かるようですが、時代が変わりましたから、感動はあまりないようです。


先日、若干書きましたが、加納治五郎が洋行の折、「支那渡航意見書」の一書を残し、出

奔しています。これには、いろいろな話があるようですが、夢枕獏の「東天の獅子・第4巻・

天の巻・加納流柔術の22章~四郎出奔」に、もちろん事実を基にしたフィクション小説です

が、ここの部分はかなり、事実に基づいて書いてあるようです。

なお、西郷四郎の出自については複雑な事情があるようですが、これについても言及して

あり、後日「東洋日の出新聞」で、行動を共にする、鈴木天眼についても書かれてありま

す。


さて、西郷四郎、長崎において、柔道、水泳、弓道を教えていたそうですが、長崎学研究家

宮川雅一氏の「ながさき歴史散策」において、武徳館(現長崎市立諏訪体育館)で指導をし

ていたそうです。

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現代、右の建物が、体育館、左の白い建物が管理棟になります。

武徳館は、明治28年に設立された大日本武徳会の武術、武道の本部、各地の道場につ

いても武徳殿と称されたものです。大戦以前は現在の都道府県、市町村立の武道館に相

当する機能を果たしていたものです。もちろん、長崎では、今は建て変わってし待っていま

すが。


この武徳殿が、道場としては終戦後閉鎖されるのですが、県が管理をし、住居とし一時貸

しており、なんと、私一家が一時住んでいたのです。

その時も、道場と管理棟に別れていましたが、道場の方は石垣が組まれ一段高い所に木

造の立派な道場があったのをかすかに覚えています(その時、私、5歳の時の思い出で

すから)。私たちは、管理棟の2階に住んでいましたが、一階は広い板張りになっていまし

たので、多分、着替えとか、時によっては練習が終わって、西郷四郎も皆で飲んでいた所

かも知れません。早く知っていれば、何か、記念になるものを探して、持っていたものを。

今、あそこで西郷四郎がと思うと感慨に堪えません。



最初の写真の顕彰碑ですが、昭和44年に長崎柔道協会が建立したものです。

上の方に、西郷四郎の死を知って、加納治五郎から6段を追贈されたものが彫られていま

す。

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碑文です。



五段西郷四郎

講道館柔道開創ノ際予ヲ助ケテ研究シ投技の薀奧ヲ窮ム其ノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門

下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ不幸ニ病ニ罹リ他界セリト聞ク惋惜ニ堪エズ依テ六段ヲ

贈リ以テ功績ヲ表ス

                                 大正十二年一月十四日

                                      講道館師範加納治五郎



最大級の讃辞でしょう。


孫から、邪魔されながら書いていますから誤字、脱字があったらスミマセン。

 

今日のおやつ。「たまに作るケーキ」と書いてありました。

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2012年3月18日 (日)

この一曲~むすんでひらいての謎   付録:橘公園花まつり演芸会(雲仙市千々石町)&島原城✿春うらら茶会

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「むすんでひらいて」この歌、歌ったことない人、多分ないでしょうね。

でも、作詞、作曲誰だか知っていますか。作詞は不明ですが、作曲は一時期、ルソー、そう

あの教科書にも出てくる、ジャン・ジャック・ルソーだと言われていました。

それを、海老沢敏さんが、下の本で論証し、上のCDに関係する曲が24曲入っています。

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簡単に書くと、ルソーは哲学者、思想家、政治哲学者であるとともに、作曲もやっていたの

です。その中で、幕間劇<村の占い師>に含まれているパントミム(劇中黙劇)の一節が、

聴いてみるとそっくりなのです。「むすんで、ひらいて」の所まで。


この劇の曲が単独で歌われることもあって、ルソーの劇中の器楽曲を誰かが「歌曲」(ロマ

ンス)、<J.Jルソーの新ロマンス>として編曲したと考えられます。

それが、フランスでは「ルソーの新ロマンス」、イギリスでは「メリッサ」あるいは、アメリカで

は「ロディーおばさんにいっといで」あるいは、賛美歌として全世界的に広がっていったよう

です。ここらあたりは、少し複雑なので、無責任なようですが、興味のある方は本をお読み

ください。


さて、日本には、明治15年に文部省が作製した唱歌教材「小学唱歌集」初編に「みわたせ

ば」として入っています。「みわたせば、花桜、こき混ぜて、みやこには、みちもせに、春の

錦をぞ。さおひめの、おりなして、ふるあめに、そめにける」という詩ですが、テンポは優雅

で、スローテンポです。


この曲が軍歌「戦闘歌」(明治28年)として「見渡せば、寄せてくる、敵の大軍、面白や。ス

ハヤ戦闘(たたかい)はじまるぞ。イデヤ人々攻め崩せ。弾丸込めて打ち倒せ。敵の大軍

打ち崩せ」と歌われたり、「進撃追撃行進曲」(明治29年)として作曲されました。


軍隊で必要なのは身体の鍛錬。それは、学校教育、幼児教育にも影響を及ぼし、単純で

歌いやすく、体のごく簡単な動きの絡み合わせと結びついて、明治42年と書かれています

が女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園でおこなわれた<遊戯>とし

て、<結んで開いて>の名が書かれ、ここに「むすんでひらいて」(作詞不明)が誕生した

そうです。


著者によると19世紀~20世紀、ヨーロッパ大陸、英国、アメリカ、日本、アジア大陸、アフ

リカ大陸に渡る時間と空間の旅であったそうです。まあ、この単純な曲に、こんな壮大な物

語があったとは。

さあ、たまには皆で歌ってみましょう。手を出して、元気よく。




むすんでひらいて


むすんで、ひらいて、

てを うって、むすんで、

また ひらいて  (股は開かない!手を開く!)

てを うって、

その てを うえに。

(その てを したに。)

むすんで、ひらいて、

てを うって、むすんで。


(参考・引用: CD「むすんでひらいての謎」ライナーノーツ、「むすんでひらいて考ールソー                  

            の夢」~いずれも海老沢敏著)




付録:

春になってきました、あちらこちらイベントがあるようです。「橘公園花まつり演芸会」4月1

日、ちょうど桜が見どころでしょう。

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日米親善人形交流島原展(3月15日~4月8日)の一環として3月20日、お茶会が開催さ

れます。紙芝居などもあります。是非どうぞ。

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2012年3月17日 (土)

青森でござい!/伊奈かっぺい~方言って面白い 付録:とけん山、桜情報(雲仙市小浜町)

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明日から孫が来るので、また、かみさんが、あちらを片付けろ、こちらを片付けろとうるさい

こと。でもって、一週間ばかり孫に邪魔されながら、ろくなろくなブログにならないと思いま

すが。今日は、これから部屋の明け渡しもあって・・・・


さて、長崎では、伊奈かっぺいさん知っている方どれくらいあるんでしょうね。東北ではマ

ルチタレントとして有名人。一時はTV等に出演してたみたいなんですが。


1947年生まれ。中学で母親が亡くなり、高校で父親が亡くなり、姉のところで20歳まで暮

らしたそうですが、それからは本人によれば暗い一人暮らし。青森放送局で最初は舞台製

作をしていたそうですが、ディレクターへ。


仕事以外(もっとも本人によれば、仕事場は体を休めるところだそうですが。)やることがな

いので、日記を書き続け、それを自費出版。ひょんな事からレコード化に。それから、歌を

作ったり、詩を書いたり、イラストを描いたり、講演会をしたりと活躍。


晩婚だったみたいですが、結婚式の時は奥さんは妊娠中。勤務先のアナウンサーに結婚

式の司会を頼んだそうですが、「新郎新婦の入場です。」という所を、「新郎妊婦の入場で

す。」とやったそうです。長男の名前が「不思議」、長女の名前が「麻亜(まあ)」。逆から読

むと「まあ、ふしぎ」。これは、ちゃんとCDに入っている話です。


伊奈かっぺいを知ったのはいつか忘れましたが、CDを調べると14枚、本を4冊あまり持っ

ていました。CDは全部車のオーディオの方に録音して、落ち込んだとき聞いています。

とにかく、面白いし、方言、地方というものを考えさせられます。

もちろん本物の東北弁で喋っていますが、時々分からない言葉があったりして・・・

この本、本人の自筆をそのまま印刷したもの。もちろん表紙のイラストも。

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下の詩(?)読むときはなるべく東北弁訛りで読んでください。





蓬田(よもぎだ)の八戸さん


・・・もしもし

蓬田の八戸(はちのへ)だばて、今、岩崎がら

電話。平舘サ行てる金木の相馬サン

がらの連絡で、明日、青森の会議さ

車力の水戸サン出れなぐなたて、

五所川原の下田サンが、

鶴田の黒石サンさ、すぐ連絡して

欲しズ伝言ば、弘前の森田クンがら

三厩(みんまや)の稲垣サンにあただどや。

したはで、何?!、もしもしッ

オラは蓬田の八戸だて。今は岩崎!!

なもや、岩崎サ来ている蓬田の八戸だて!!

何回、同じごと喋べらへるのや。

岩崎サ来ている蓬田の八戸だて!・・・


       蓬田村役場にいる八戸さんがら聞だ話。




ところで、伊奈かっぺいさん日本で一番短い会話として、今は有名になりましが、東北弁の

「どさ。」「ゆさ。」~「どこへ行くの。」「お湯(風呂)にいくの。」というのを話していましたが、

私が職場でこの話をしていると、「長崎弁がもっと短じかかよ。」の声。そう、長崎では「ど

け。」「ゆ。」で済むのですから一字少ない。


子供達もだんだん方言を喋らなくなりました。こんな田舎も「パパ、ママ」。尻の穴がムズム

ズ。

伊奈かっぺいさんのCD機会があれば聴いて見てください。ホームページを見ると活躍し

ているみたいで嬉しいです。こちらでは情報が入らなくて・・・

(付録)とけん山公園。ボンボリの設置は終わったようですが、桜はまだまだ。

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2012年3月16日 (金)

黄色い涙~永島慎二/市川森一  付録:橘公園桜&島原芝桜公園情報

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この本、もう数十年ほど前に買った本です。永島慎二の本は「漫画家残酷物語」「ふーて

ん」「若者たち」「旅人くん」など20代の時、よく読んだものでしたが、2005年に亡くなって

いたとは知りませんでした。永島慎二の名前を知っている若い人は少ないでしょうが。


主人公は、少しは売れている漫画家、村岡栄(永島慎二のアシスタントをしていたむらおか

栄一がモデル?)。彼の3畳の部屋に住みついた4人の男と、それを取り巻く物語。そして

別れ。まさに「青春漫画」そのもの。読み返してみれば、あの頃のことが思い出されます。

この物語に出てくる「ポエム」という喫茶店、通っていた大学の近くに支店ができ、彼女とよ

く行ってコーヒー一杯で何時間も喋っていたものですが・・・黄色を主体としたインテリアで、

永島慎二のイラストを入れた中型のマッチが50円。パイプを吸っていたのでよく買ってい

ました。


さて、先日、脚本家の市川森一さんが亡くなりました。諫早市出身で、長崎では超有名な

方です。「怪獣ブースカ」「ウルトラセブン」「コメットさん」「親戚たち」等々の脚本を書いてい

ますが、脚本家は表に出ることが少ないので、他県の方はでご存じでしょうか?


諫早の図書館に行ったところ、市川森一さんの本が寄贈され、一角にブースが作ってあり

ました。鍵がかかっていたので外から見ると、この「黄色い涙」が本棚に置いてあったので

す。

あれ、市川さん漫画も読んでいたのかなと思ったのですが、漫画で置いてあるのはこの本

とあと2,3冊だけ。


帰って調べたら、この本NHKで昔やっていた「銀河ドラマ」でドラマ化されていたのです。私

が持っている本が第2版。この本には、放送されたときの写真が入っていました。

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若いですね。森本レオも、岸部シローも。出演者、関係者のイラストも描いてありました。

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この、ドラマの脚本を市川森一がやっていたのです。イラスト一番下の左、ちゃんと「脚本 

市川森一」と書いてあります。


後書きを読むと、元NHKディレクターの鈴木基治氏が『脚本も決まった、新進脚本家市川

森一氏で、民放で活躍中だったが、NHKの銀河は3年後の目標という彼を説得した。彼も

この原作に魅かれたのだろう・・・世代は違うが、私たちには、「若者たち」と同じ青春時代

があったから・・・・・。』と書いています。


これで、市川森一さんの本棚にこの本が置かれていた理由が分かりました。

いい絵ですね。その人の性格なり、人生なりが一発で分かるような絵です。今も結構、漫

画は読んでいるのですがこのような絵に巡り会うのは少なくなりました・・・

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さて、別件です。ブログのアクセス解析を見ると、橘神社の桜情報、島原の芝桜公園の情

報を求められている方が多いようなので付録です。

橘神社はぼんぼりの準備中ですが、桜はまだまだのようです。写真はいつかご紹介した、

桜開花の基準木。家の近くなので順次写真を載せますのでご参考に。

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こちらは島原の芝桜公園。昨日、15日の写真ですが、まだまだ工事中。4月1日の芝桜

祭りまでに大丈夫かな。

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しまばら芝桜公園3月30日状況は→こちらをクリック






2012年3月15日 (木)

知恩洞(パワースポット)~雲仙市小浜町雲仙

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雲仙でもあまり知られていないところに「知恩洞」があります。

札ノ原小地獄バス停から歩いて15~20分程度の所。最初間違って、小地獄のバス停の

所に行ったら、どうも見当たらない。おじいさんがいたので訪ねたら、向こうの方だとか。し

ばらく立ち話をしていたら、故豊田カヨ庵主、海外にいて、といっても当時は朝鮮か中国だ

と思いますが、何かあったようでその罪滅ぼしに修業をしたとか。


さて、場所を聴いて行くと空き地はあるが、個人の駐車場で止められない。先ほどのおじ

いさんから聞いた目印の小店に車をお願いして行くとすぐに黄色い鳥居。

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道は、山道にしては広く歩きやすく、途中にまた鳥居と道案内が。

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こちらからも、一切経の滝に行かれるようになっていますが、道は悪くないが、急階段。例

の行基洞はこちらかの方が行きやすいのでないかと行って見ましたが、疲れて途中で中

止。再度こちらから挑戦したいと思います。

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しばらく行くと立ちはだかる左右の巨岩。しかし、人がくぐれるくらいの穴が空いています。

いわゆる、仏様の胎内めぐりといって、身を清め、心の安定を願うもので、各地の霊場にも

見受けられるものだそうです。

ここを通ると知恩洞。右の写真が初代庵主豊田カヨさん。

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雲仙が真言密教の地として栄えた頃、このあたりに300もの僧房があったそうですが、そ

の修験の場であったようです。多分、近代に至り雲仙は仏教の場としては廃れ、ここも忘

れられたところではないでしょうか。


さて、さっきの小店に戻り、おばあさんと話をしていると、ここらあたりは昔は山の中で、も

ちろん知恩洞までの道はなかったそうですが、豊田カヨさんがこの地に導かれるようにして

来られ、当時は目のくらむような絶壁の途中の畳3枚くらいのところで、むしろ作りで雨露を

しのぎ修業されたそうです。


それを聞き、段々信者の方が増え、今はごく普通の家になっていますが、小屋といっても

小さなものだったそうですが、建ててあげたということでした。多分この像も信者の方が寄

進されたのでしょう。昭和44年88歳で亡くなられていますが、近所の方が2代目を継がれ

たそうですが、高齢になって島原で療養中だとかいう話でした。

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話では、真っ白な髪の上品な方で、少し神がかっておられ、自分が小さいとき病気をし、そ

れを祈祷をして直してもらったそうです。昔は、よく供養に行かれていたそうですが、足を悪

くしたためこちらから毎日お祈りをしているそうです。


この知恩洞、下のパンフレットにも、おすすめ一押しパワースポットとして、「仏様の胎内め

ぐり、冷気が心地よく、マイナスイオンたっぷりの中、深呼吸すると体内が浄化されすっき

り!ストレスフリーのスポットです。」と紹介されています。

ここは2回ほど訪れましたが、下からは一切経の滝音がして、静かなところで、心がすっき

りするような場所です。

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さて、腹が減っていたので、本日は適当にホテル食と。

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入ったら何となく上品な感じ、雲仙のもみじ豚を使った角煮重セットを。なんと角煮が5枚も

入っているではありませんか。家では、かみさんがカロリーだの、栄養だのと一枚しか食べ

させてくれない角煮が5枚も。まあ、今日はあれだけ山の中を歩いたのだから、良いだろう

ということにして、全部いただきました。かみさんがいないところで食べるのは、ストレスが

なくて良いな。おご馳走様でした。「六兵衛」もついていましたよ。



参考:「雲仙歴史散策資料」~西久海  「雲仙」~(財)自然公園財団

    雲仙再発見!(女将のおすすめ癒やしのパワースポットマップ) 


2012年3月14日 (水)

一切経の滝・三鈷の松/行基洞を求めて~雲仙市小浜町雲仙

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一切経の入り口です。雲仙小地獄の所にあります。名前は昔から聴いたことがあるのです

が、行ったことがないのと、僧行基が修行をした行基洞も険しい所にあるというので行くこ

とに。


一切経は、この地に僧行基がここに堂を建て、一切経を写筆し、この地に埋めたか、滝に

流したかの説があります。


途中の道は厳しくもなく、だらだらと下っていきますが、戻るときはチトきついなと言う感じ。

途中に、杖代わりに木を切ったのが置いてありますから、持って行くのが無難でしょう。

しばらく行くと、三鈷の松があります。三鈷の松にはいろんな話があるようなので各自、自

習してください。

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二本あります。両方ともロープが張られ触れられないようにしてあります。一本は隣の杉に

邪魔されて上が見えません。

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「三鈷」とは左の写真のように、弘法大師が右手に持ておられる仏具です。

弘法大師が日本に帰るとき、真言密教をどこで広げるか、その地を求めるのに、この三鈷

を空に投げたところ、高野山の松に引っかかっていたそうで、その松が三葉の松であった

そうです。


雲仙の三鈷の松は、説明版によると、高野山との交流があったころ、雲仙の修行僧の身

体の保護を願って、移植したとの歴代高僧の説が残っています、と書かれてあります。

上の右の写真ですが、一番左は普通の松。右の三本が三鈷の松の落葉を拾ってきたもの

です。縁起物だとかいうので、たくさん集めてきましたが、お入りの方は分けますよ。ただ

し、美人(自称可、私優しいから)の方に限りますが・・・・


さて、しばらく行くと、川に架かる橋、極楽橋と書いてありました。そして最後の鳥居。

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西有家新四国第49番札所でもあるのですね。長崎県の新観光地100選の地でもありま

した。

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外も内も、信者の方々からでしょうかたくさんの仏像がありました。

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さて、一切経の滝ですが、イメージが多少違うのですね。

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以前この写真を某所で見て、こんな所かなと思っていたのですが・・・外人プール代わりに

使っている写真です。実際行くと。

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違うでしょう。調べてみると別の古い写真があったので。

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これ、「雲仙お山の情報館」提供の写真だそうですが、要するに、川をせき止めてプールに

してしまったようなのです。いまは、跡形もありませんが。まあ、行基さんが修行したところ

を遊び場所にするなんて、これだから西洋人は嫌いだ。


滝のそばには小屋があって、着替え出来るようになっていました。今も修行される方がい

るのでしょう。

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さて、行基洞はこれから川に沿って20分、それから山の急坂を登ること25分と「雲仙歴史

散策資料」に書いてありましたが、途中テープが巻いてあり、2~3カ所案内はありました

が、行き着けず。もっとも山の斜面を見るとすごい斜面。登れるかな?

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逆に知恩堂から回った方が早いかなと思って、途中で引き返し、知恩堂によって、逆に知

恩堂から谷間まで下ったのですが、これが手すり付きの急な階段、力の限界にきたみたい

で戻って来ましたが、上に戻ったらへたばりました。

でも、又挑戦しますよ。明日は、そのあまり知られざる知恩院を案内します。



(参考:各説明版 「雲仙歴史散策資料」~西久海)


2012年3月13日 (火)

女人堂~雲仙市千々石町木場

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今日は、長崎の図書館で半日捜し物、その後現地で取材。おかげでいい話を見つけてき

ました。西郷四郎の話と愛野町~小浜町までの温泉鉄道の話題です。又後日紹介します

ね。


さて、日本の棚田百選ですっかり有名になった木場の岳地区ですが、そこの途中から少し

下がったところにに女人堂があります。もう忘れられようとしている史跡です。

棚田へ行く時、車からも少し見えます。四角で囲んだところです。

下の写真は先日紹介した磨崖仏ですが、そこから少しいったところから左に下がった所で

す。

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雲仙は高野山、比叡山より早く行基により開山されたそうです。山岳修験道の山であり、

霊山として有名な所でした。千人からの僧が修行をしていたそうです。

当時の道は下のように四つあったそうです。


島原路  安中村~深江馬場~末宝~小地獄

北目路  大三東~本末~舞岳麓~池ノ原

西目路  千々石~木場~高岳~稚落~別所

南目路  鮎帰~湯河内~矢筈~札の原


このうち最も早く開けたのが、千々石路で表参道であったそうですが、霊山のため女人禁

制でした。そのため、千々石の木場に女人堂という御堂を建て、女性がここで参詣したそ

うです。昼夜となく読経の声が絶えなかったといわれています。

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木の下に数個の板碑があります。

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女人堂跡の標柱が。板碑の数枚には字が読めます。梵字なのか?いろいろ調べました

が、意味を書いてある資料はありませんでした。

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こちらの方は上は梵字みたいですが、下には人の名前と思われるものが彫ってあります。

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下の方です。左の方は「道」と読めます。右下は「圓」と読めます。郷土誌によると「道音」

と「妙圓」という文字があったそうですが、「音」と「妙」は薄れてよく読めませんでした。鎌倉

時代の建立だということだそうです。

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近所の方がお参りした跡がありましたが、世代が変わるとどうなることか。

棚田を見にいく機会があったら、途中ですから寄って見てください。


ここに行ったときは夏で暑かったので、橘神社の近くで、長崎名物の「アイス」を。久しぶり

でおいしかった。

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(参考:雲仙歴史散策資料~雲仙史探会 西久海   千々石町郷土誌)

2012年3月12日 (月)

たった一人のオリンピック~山際淳治

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2月26日の東京マラソン。公務員の市民ランナー川内選手残念でした。オリンピックの選

手が専門化していく中、市民のランナーからオリンピックに出るのは我々の夢でもあった

のですが。


さて、川内選手で思い出したのが、この本の中の一編「たったひとりのオリンピック」。

書いたのは山際淳治。「江夏の21球」(この本に入っています)でスポーツ・ノンフィクショ

ン作家として有名になりました。この「スローカーブを、もう一球」で第8回角川書店日本ノ

ンフィクション賞を受賞。1948年生れ、1995年没ですから、早すぎる死でした。若い人

は知らない人も多いでしょう。


さて、この「たったひとりのオリンピック」の主人公は津田真男、実在の人物です。

高校は名門、教育大学(現・筑波大学)附属高校、サッカーをやってたそうです。当然東大

を目指すが3浪。そののち東海大学へ進学。麻雀の日々で留年の可能性が。

それをリカバリーするかのように、「オリンピック」へ出ようという連想が。


その時23歳、モントリオールオリンピックまで1年半。ヨットにするか、アーチェーリーをす

るか自転車にするか、その時思いついたのが、マイナーな競技の一人乗りボート。痔の問

題、ボートの問題、練習場の問題を抱えながらも、練習を始めて2ヶ月後、記録会で思い

も寄らぬ良い成績。その後、自分で艇、オール、漕ぎ方に独自の工夫をおこない、昭和5

1年に”お花見レガッタ”で優勝。オリンピックまで手が届きそうになるが、漕艇協会はシン

グルスカルでなく、エイトを送ることに。夢破れるが、次のオリンピックを目指すことに。


学校を卒業するが就職と練習の問題。いろいろな職業、アルバイトを経験しながらも、オリ

ンピック代表に選ばれる。そのオリンピックが、「モスクワオリンピック」。ご存じのように、

アメリカに右へ習いで日本もボイコット。

しかし、この作品があるおかげで、一人でオリンピック代表を勝ち取った青年の名前は残

っていくでしょう。


思い出しましたが、30年ほど前、オリンピックのマラソン選手も出場する経費がなく(当時

はオリンピック選手といえどもアマチュアということで援助は少なかったそうですが)駅前に

募金箱を下げて、募金をしてもらったそうです。シンクロナイズドスイミングの指導者井村

雅代元監督も、シンクロが今みたいな成績でなかった頃は、一日指導して、交通費込みで

手当が数千円だったそうです。皆がんばってるのですね。



私ももう少し若ければ・・・一時間6キロで走っていたのですが(歩くのと同じくらいか)・・・

しかし、市民ランナー川内優輝選手まだ25歳。夢に向かって走って欲しいですね。


2012年3月11日 (日)

この一曲~がんばろう:アジール・チンドン/ソウル・フラワー・モノノケ・サミット

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金曜日の病院での検査入院。やっと直りましたが、昨日までの血尿と、とにかくメゲてしま

いました。こんな時は、少し景気のいい音楽でもと久しぶりに上のCDを。


ソウルフル・フラワーというバンドがありますが、阪神・淡路震災の折、ソウルフル・フラワ

ー・モノノケ・サミットという名義でちんどん屋スタイル音楽の「慰問ライブ」をおこなったとき

のものです。CDの名前は「アジール・チンドン」です。


どうして、このCD買ったのか覚えていないのですが、ちんどん屋さんのレコードあと2枚あ

るので、衝動買いしたものでしょう。このバンドについては詳しくないので、ウィキペディアで

見てね。特徴的な活動してますよ。災害基金も作っているそうです。


このCD「復興節」「美しき天然」「ラッパ節」「聞け万国の労働者」「デモクラシー節」「デカ

ンショ節」「貝殻節」「~アランベニ」「がんばろう」「東京節」「武田の子守歌」。いわゆる、壮

士節、労働歌など、聴けば手でも打って一緒に歌いたくなるような景気良い演奏。


「がんばろう」は三池炭鉱の労働争議の折りに出来た唄です。この争議の時、私はまだ小

さく、意味も分からないながらも、大変な事が起こっているのだなという記憶はかすかなが

ら残っています。

作詞は、当時炭労の機関誌に詩を発表していた森田八重子。現地で見たままの、労働

者と主婦が一緒になってデモ行進する姿をそのまま書いたそうです。作曲は歌声運動の

仲間で、三池炭鉱の労働者、荒木栄。1960年6月5日、福岡県大牟田市の三池炭鉱の

広場で一万人の労働者が初めて歌ったそうです。




がんばろう


がんばろう!

つきあげる空に

くろがねの男の こぶしがある

燃え上がる女の こぶしがある

闘いはここから 闘いはいまから


がんばろう!

突き上げる空に 

輪をつなぐ仲間の こぶしがある

おしよせる仲間の こぶしがある

闘いはここから 闘いはいまから


がんばろう!

つきあげる空に 

国のうちそとの こぶしがある

勝ちどきを叫ぶ こぶしはひとつ

闘いはここから 闘いはいまから



聴いて一緒に歌っているうちにだんだん元気が。

でも、1960年安保、1970年安保、沖縄反戦デー、大学紛争、新宿西口広場フォークゲ

リラを経験してきた世代からすれば、日本人の闘う姿勢がなんと希薄になってきたこと

か・・・特に若者の


今日のおやつです。イチゴのパンナコッタ。私も、こんなところでデレデレして良いのかなと

反省しながら・・・とにかく、がんばりましょう!がんばれるうちは。

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(参考:CD添付ライナーノーツから)


2012年3月10日 (土)

前立腺がん疑いのための生検入院体験記

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さて、今日のところは無事戻って来ました。要するに検査入院で結果は1週間ほどのちだ

とか。なかなか、経験することがないと思いますので、男性の方はご参考に。

PSA(前立腺特異抗原)が平均値より高いということで、内視鏡、MR等では正確に確認出

来ないために、細胞をとる検査という事でした。


10時に入院。着いたら可愛い看護師さんがお待ちかね

個室が空いてないとの事でしたが、ラッキーにも空いており、シャンデリアとかホームバー

とかカラオケまではありませんでしたが案内されて入室。

血圧測定、体温、一番嫌いな採血。お尻丸出しにして浣腸。点滴。抗生剤を2錠。薬剤

師さんが来て、今飲んでいる薬の確認。朝から暇なし。


昼から、妻を従えて、じゃなく妻に従って先生の説明。チンコの先から内視鏡を入れて(こ

れ痛いよ、悶絶するくらい)細胞切り取りかと思ったら、肛門から器具を入れ、針を腸壁か

ら通して前立腺の細胞を取るとか。先生何気なし「10カ所おこないます。」

私、「げぇー10カ所も!」


3時からということで、しばし待機。もうこの時間ドキドキ。とにかく手術と言えば歯を抜いた

くらいのも。かみさん、時間があるのでお気楽に、お買い物。


さて、3時に手術室に。思ったより明るいところ。名前を、部屋に入るときと、部屋に入った

とき確認。なだいなださんによると、昔、右足と左足を間違って切断した医者がいたとか。

念には念をいれて確認作業。


横になって、仙骨のところから麻酔薬注入。麻酔が効いたところで仰向けに。右腕に血圧

計。左腕は点滴。胸には脈拍計。

良く産婦人科でするように、器具に足をのせて広げて恥ずかしい格好(砕石位と書いてあ

りました。)最初指を入れて触診(もちろん肛門から)ぐりぐり。はるな愛ちゃんとか、KABA

ちゃんとかもこんなんかなと思いながら・・・可愛いチンコ見られ放題。


その後、消毒とかなんとかとか出したり入れたり。もう肛門ヒリヒリ。

機械を入れます。ということで挿入されたと思いきや、手術室にバーンと銃声。これ針を刺

す機械の音でした。ビックリしました。多分腸の壁を通して前立腺へ刺しているのでしょう。

これを10回。もう、早くしてよ。ビリザーキッドみたいに早撃ちで。とにかく、一本、二本、

三本、四本・・・数えてやっと十本で終了かと思ったら、消毒とか圧迫とかで、まだ穴に出し

入れ、ガーゼを挿入(30分くらいでしたが)。やっと終わり、本当に待ち遠しかった。


後はベットに移って部屋へ。かみさん、やることがないので「ほんじゃね。」と帰りましたが、

天皇陛下だって、今度の手術にさいしては、美智子妃殿下が天皇陛下の手を撫でながら

「大丈夫ですか。」とお聞きになったとか。手ぐらい撫ででいっても良いじゃないですか。減

るもんじゃなし。2時間ぐらいの安静で飯は普通に食われました。


なにやら放送があって、長崎の方はご存じの「アンサンブル・ポエ」の演奏会があるとか。

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ユーモアある司会で、いろんな曲が聴かれて、お客さんも結構入って楽しい音楽会でし

た。良いですね。患者さんの気持ちもほぐれて。

あと、検尿とか、体温、血圧とか次から次々にやることが。

さて、睡眠薬を飲んで眠ろうかと思ってもなかなか眠れず、というより9時消灯は早すぎ

る。

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後は大丈夫だろうということで、今日、やっと退院してきましたが、1~2週間は血尿とか、

血便がでることがあるとか。本当に血尿でました。あんまり気持ちいいもんでないですね。


暇なとき本を読もうと思って、少し勉強するつもりで「漢文法基礎」、それも600頁の本を

持ち込こみましたが、病院に入るときは易しい読み物が良いですね。こんな本持ってくる

くるんじゃなかった。

手術がなかったら病院は良い所なんですけどね。

男性の方は、前立腺にはご注意を。本日は疲れました。お休みなさい。









2012年3月 9日 (金)

読書について~ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳

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今日は楽しい検査入院。わくわくしています。やさしい看護師さんに。

ということで、今日はざっと書いていきます。明日、ブログが更新していなかったら、そのま

ま入院と思ってください。これが、私の遺稿になるかもしれません。


哲学が好きだということではないのですが、どういうわけか、ショーペンハウエルの「読書

について」これだけは、何回か繰り返し読んでいる本です。他の著書は読んだことがあり

ませんが。この本、読書好きの方は、是非お読みください。

「無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。」という有名な文句から始まります。

「貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。これに反して無知

な富者は、ただ快楽に生き、家畜に近い生活を送る。」お互い、富者でなくて良かったです

ね。


「読書は、他人に物を考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反

復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたど

るようなものである。だから読書の際には、物を考える苦労はほとんどない。」


「紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。

歩行者のたどった道は見える。だが、歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分

の目を用いなければならない。」

主に哲学書を対象にしているのですが、小説を読むのにも応用できるでしょう。


きりがないので、止めますが、さすがショーペンハウエルですね。、本を読むたびに思い出

す言葉です。一度は、目を通してください。読書の仕方が少しは違ってくるでしょう。

では、また。


2012年3月 8日 (木)

木花開耶姫(このはなさくやひめ)神社~雲仙市小浜町雲仙

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おお凄いですね。自分のと見比べないように。絶望的になりますよ。

これ、雲仙は地獄方面から少し離れた原生沼の山の方にあります。

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原生沼はミズゴケの湿原として、学術的価値が高く、昭和3年日本の天然記念物に指定さ

れています。さて、原生沼の向こうに小さな山がありますが、その中腹に「木花開耶姫神

社」があります。良い名前ですね「このはなさくやひめ」。

一般に道祖神とも呼ばれ、男女和像の神像で、自然石を祀る縁結び、家庭和合、子宝授

けの神と云われています。


さて、この原生沼を回ると、ちょっと、というより壊れかけた鳥居があります。

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ここが神社の入り口ですが、道はしっかりしています。濡れているときは少し滑りやすいの

で注意して。

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少し急な坂ですが、道々の木にプラスッテックいたの短冊が下がっています。これは、お

参りの人から短歌を奉納してもらいその歌を下げたそうです。思わず笑ってしますのも。


・あの人は口で言うほどできもせず

言われた方はかわいそうに。

・いつまでも若くもちたい男女の道

・還暦はとうに過ぎたがまだしたか(まだしたい:長崎の方言)

・こらしもた(これはしまった)八十路越しちゃ間に合わん

・行きつぎて登りし坂にあなかしこ昔を偲ぶなつかしきもの


少し歳を取られた方とすれ違い挨拶がてら「どうでしたか?」と聞いたら、ご夫婦ともニコニ

コしておられました。


・今夜こそ咲かせてみせますピンクの花びら

・姫のお加護のありがたや女房今夜は大ハッスル

・いちもつの我より太き男神我が妻と今夜比べん女神(おんながみ)

・新しき人生を歩み始めたユミと僕坂のきつさも楽しからずや

・この石像モデルいったい誰かしら

・うわー太さビックリ仰天友九人

・後家三人陰陽石で思い出し

・若後家は登る道々ひやかされ

・うるわしい若き男女の二人づれ男根女根のねがいみのらん


いろいろ、下げているのを見ながら登ることしばし。読んでいくと坂のきつさも忘すれます。

やっと見えました左側に男根が。

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こちらが、ご本尊様でしょう。

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この右側になんとリアルな・・・思わず吸い込まれそう。

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この神社由来がユーモアをもって書いてありました。クリックすると拡大するのでゆっくり

お読みください。

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この神社のこと、あまり知られていないようですが、雲仙まで来られたら寄って見てくださ

い。

でも、一人で来ても面白くないですよ。二人で来て、神様を拝んで、夜はハッスル、ハッス

ル。

(資料提供:雲仙お山の資料館 資料:雲仙歴史散策資料/西 久海)


2012年3月 7日 (水)

歩道の終わるところ~シェル・シルヴァスタイン

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(「歩道の終わるところ」表表紙・裏表紙:クリックすると拡大します。)

1974年、シルヴァスタイン44歳の時の作品です。1970年には長女ショシャンナが生まれて

いますが、1972年には父親が亡くなっています。1975年にはショシャンナの母スーザン・ヘ

イスティングが亡くなっています。(法的な婚姻はありません)


「歩道の終わるところ」は発売されるとベストセラーリストの一位になり「ニューヨーク・タイ

ムズ」の推薦書にも選ばれ、1984年には朗読でグラミー賞を受賞したそうです。


さて、この本は絵本ではなく、詩集です。

絵が入っていたり、文字だけの詩であったりしますが125編の詩からなる本です。

子どもも、楽しめますが、「ビッグ・オーとの出会い」のあとがきで、倉橋由美子が書くよう

に、「大人が読むための絵本」かもしれません。

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こんなこと言われたら、この本閉じられませんよね。


一番面白いのが、「カバサンドの作り方」。もちろんあの「カバ」です。動物の大きいやつ。


カバサンドの作り方


カバサンドの作り方は簡単でございます

材料は

 パン           ひときれ

 ケーキ         ひときれ

 マヨネーズ             少々

 オニオンリング   ひとつ

 カバ         一頭

 ひも         一本

 胡椒         少々

これだけでございます

さてこれからが問題でございます

召し上がり方が



これには、絵がついていますが、私、意地悪なので絵は載せません。本当に「カバサンド」

簡単にできますよ。自分で確かめてください。絵を見たら、笑い転げてしまうでしょう。この

本、本棚に置いて時々読むのが楽しいでしょう。一気に読むのが惜くって。


すこし横道にそれますが、マイケル・G・ホーガン著、水谷阿紀子訳「大きな木の贈り物

の」の中に、「図書館で読めない本として」『「歩道の終わるところ」と「まよなかのだいどこ

ろ」は、アメリカじゅうの多くの図書館でずっと禁書になっている。シルヴァスタインのいくつ

かの詩に見られる反抗的な内容だけでなく、これらの本に含まれる2~3の挿絵が、子供

にふさわしくないと考える人たちがいるのだ」と書いてあります。

読んでみて、別にそんなことはないのですが、やはりアメリカは文化の面で後進国、失礼、

発展途上国なのでしょうかね。


本の題になっている、「歩道の終わるところです」



歩道の終わる所


ここは歩道の終わるところ

車道の手前

やわらかい草が白く光り

太陽が真っ赤に燃えて

月夜鳥が羽を休め

ペパーミントの風に吹かれるところ


こんな所は出て行こう

ここは黒い煙が流れ

暗い道が曲がりくねっているところ

アスファルトの花咲く採掘場を横目に

ゆっくりと歩調を整えて歩いて行こう

歩道の終わるあの場所へ


ゆくっりと歩調を整えて歩いて行こう

チョークの矢印を追って

それは子供たちの矢印

子供たちはしっている

歩道の終わるあの場所を



さて、歩道が終わる場所には何があるのでしょう。文章だけの詩は、自分で絵を思い描く

ことが必要です。たぶん、この本を読むと分かってくると思います。シルヴァスタインと一緒

にでかけてみませんか?



(参考:マイケル・G・ホーガン著、水谷阿紀子訳「大きな木」の贈り物)




 

2012年3月 6日 (火)

長崎刑務所正門跡&「破獄」吉村昭~長崎県諫早市

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昨日、諫早に用事があって行った時、ひょっと目についてものが。

全部無くなっていたと思っていたのですが、正門だけ保存してありました。長崎刑務所で

す。

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入りたくはありませんが、立派な作りですね。

説明の看板を読むと歴史もあります。

大正年間  豊臣秀吉が囚獄を南馬町(長崎市の諏訪神社下)に設置

慶長5年  南馬町から桜町に移転

明治7年  明治政府桜町囚獄を長崎本獄と改称

明治9年  長崎監獄に改称

明治15年 長崎村片淵郷に移転

明治34年 北高来郡諫早村(諫早市野中町)に移転工事着工

明治41年 移転開庁

大正11年 長崎刑務所に改称

そして、平成4年に諫早市小川町に移転。ここは、廃止になりました。

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裏側から見た写真です。一部補強してありますと書いてありましたが、白い煉瓦のところ

が補強した部分でしょう。以前は取り囲む塀、建物の大部分が煉瓦造りで、690万個が

使われたそうです。


ここを、取り壊すときは保存するかどうか、議論があり、なくなってしますということで、カメ

ラ愛好者の方が写真撮影でたくさん訪れていたものですが・・・


こんな建物はもう見られないでしょう。近くを通られる時は是非ご覧ください。諫早の陸上

競技場あたりになります。初めての方は、ちょっと分かりにくいので訪ねながら行ってくださ

い。

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正門の後ろ側は、なにが出来るか知れませんが、敷地造成中でした。


さて、これで思い出したのが、吉村昭の「破獄」。

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刑務所を脱獄すること4回の白鳥由栄をモデルにした小説。この人をモデルにした本何冊

か出ていた記憶があるのですが。とにかく、何しろ、あの網走刑務所を脱獄した人。読ん

で見ると、緻密、大胆、あっと驚く脱獄方法。筋を書いてしまうと、読むときの楽しみがなく

なるので、書きませんが、是非ご一読を。

(参考:刑務所説明板より)










2012年3月 5日 (月)

諫早陸上競技場(長崎県立総合運動公園陸上競技場)~諫早市

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上の写真、陸上競技場ではありません。帰りに寄ったお菓子屋さんです。


長崎で国体が開催されたのが1969年、その時のメーン会場になったのが、普通、諫早

競技場と言っていますが、正式名称「長崎県立総合運動公園陸上競技場」。えらくまた長

ったらしい名前ですけど、まあ、お役人がすることですから。


さて、2014年に国体と全国障害者スポーツ大会が開催されるので、競技場は取り壊し、

建て直し中です。2013年6月までに完成予定だそうです。

前に書いたように、マイウォーキングロードでもあるので、先週の土曜日3月3日久しぶり

にいってみたら、だんだん形がしっかりしてきました。

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少し上の方から見た風景です。

ガードマンが見張って中まで入れませんでしたが、左が北村西望さんの像がある正面で

す。

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ここの、芝生広場のびのびして良いですね。

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グラウンドゴルフ。いつ行ってもやってますね。皆さんお元気なこと。スポーツ教室でしょう

か?珍しい二重長縄飛び。しばらく見ていましたが、やはり難しそう。

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サブグラウンドは、使われますのでそちらまで足を延ばすと、中学生でしょうか。練習中だ

ったのですが、私が通りかかると全員起立して、私に「おはようございます」。えらく、礼儀

正しいなと思ったら、監督さんが私の後ろに来ている所でした。

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サブグラウンドは、一杯。ここから2014年の国体の選手がでてくるのでしょう。

私も、長崎県民の一人として国体に挑戦しようかと、先日選考会の申し込みをしてきまし

た。水泳連盟へ。競技種目は100メートル犬かき競泳の部。係員が真面目なせいか受け

付けてくれませんでした。

いいじゃないですかね。かって、オリンピックで1900年パリ大会から、1920年アントワー

プ大会まで綱引き競技だってあったんですから、犬かき競技があったって。

皆で作りましょう、全国犬かき水泳競技連盟。


さて、帰りがけ、競技場の全景を写せる所がないかうろうろしていたら、一番上の写真の

お菓子屋さんがあったので、「ラ・フェーブ」と読むのかな?入って、お買い物。

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3月3日だったから、お雛様の可愛いケーキと、ハートチョコの詰め合わせ。こちらは息子

の嫁へのお返し。食べた後、窪みに水を入れて製氷室に入れるとハート形の氷ができる

というもの。

さて、昔、タイ焼きは頭から食べるか、尻尾から食べるかなんてありましたが、お雛様のケ

ーキ、食べ方は決まってますよね。まず邪魔な男雛をガブリと。後は、残った女雛をゆっく

り楽しみながら・・・・「あれ~」と言う声が聞こえたようですが、おいしかった。




2012年3月 4日 (日)

この一曲~グラスハープのためのアダージョハ長調/モーツァルト

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あまり、一般的でなくほとんど聞く機会がない楽器のひとつに「グラスハープ」があります。

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足つきの、ブランディーグラスに(これは私のウィスキー用のグラスで、スコッチモルトウィ

スキー協会から手に入れたやつですが)、水を入れ、指に水をつけグラスの縁をグルグル

回すように撫でると音が出ます。といっても、指の力の入れ方、指の速度を微妙に調節し

なければなりませんが、音だけは少し練習すると出るようになります。

音は、澄んだ純粋な天使の音といっても良いような心地よい音です。水の量、ガラスの質

などによって音程、音色が変わります。


ただ、音楽を奏でるにしては音程を合わせるのが難しく、演奏途中で水が蒸発して音程が

変わる、水の中に不純物が入るなど難しい面があるようです。また、早いパッセージは音

の立ち上がりが遅いため特に難しいでしょう。


ここからは、ライナーノートを参考に書きますが、この素朴な楽器に改良を加えたのが、政

治家であり、発明家であったベンジャミンフランクリンであったそうです。半円形のグラスを

一本の心棒に何個もとおし、回転させる方法を考案し、コード、早い動きにも対応できるよ

うにし、飛躍的に楽器としての性能を高めたそうです。

これにより、モーツァルト、ベートーベン等もこの楽器のために作曲して隆盛をみせたそう

です。


しかし、奏法が容易になったため、演奏に熱中するあまり、指先の微妙な振動が時として

神経障害を起こす例が続出し、ドイツでは禁止され、違反者は逮捕されたそうです。しか

し、改良されたとはいえ、水と壊れやすいガラスのため、時代遅れの楽器になって忘れら

れた存在になったそうです。

ユーチューブに多分フランクリンの考案した楽器があるみたいです。


今世紀に入り、R.シュトラウスがこの楽器を「影のない女」で採用し、ブルーノ・ホフマンとい

う名手が現れ、フランクリンの機械式ではなく、素朴なグラス方式を使い大きな関心を集

めるようになったそうです。

ユーチューブにこのグラスハープを使って「アベ・マリア」を演奏したのがありますが、聴い

て見てください。まるで、この楽器のために作曲したのではないかと思えるほどです。

聞けば、癖になる癒やしの楽器です。


私もしたいんですが、これだけのグラスを買うといくらになるのか、年金暮らしですから、聴

くだけにしておきましょう。

(参考:ライナーノート解説/諸石幸生)








2012年3月 3日 (土)

雲仙・絹笠山~かくれキリシタン像(?) その2 (雲仙市小浜町雲仙)

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さて、昨日の続きです。山を下りながら、どうしようかと考えたのですが、好奇心の方が勝

って、まあ行くところまで行ってみようと。

あまり道が分からないのですが、ブログ「三鈷の松」によると、林の中に岩があり、その左

下を抜けると道がある。多分この石かなと思い左に回ってみると。

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意外に良い山道が続いています。

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歩くこと15分~20分程度。道に迷うことはありません。多少のアップダウンはあっても、山

の中腹を横切って行く道ですから、そんなにきついこともありません。

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やっとありました。意外に少し広い広場になっています。荒れてはいますが、手水鉢も。

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後で言われたのですが、手水鉢がハート型になってなかったかどうか?残念ながら、写真

でははっきりと確認できません。

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古びたワンカップの酒のコップ等もあり、時折訪れる人もあるような感じ。

一番上の写真がその像ですが、キリシタン像と判断されたのは足元に彫ってあるのが蟹

だからです。

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キリスト教にはいろんな象徴があり、キリスト教の絵画を見ると、そのどこかに象徴が描い

て書いてあります。羊とか、魚等々ですね。

たとえば、羊は迷える羊の話、ルカ福音書、マタ福音書等に書いてあり、魚の話も種々の

福音書の中に出てきており、キリスト自身のシンボルです。

さて、帰って「キリスト教のシンボル事典}を調べても蟹は載ってない。もう一度、ブログの

三鈷の松を調べると載ってました。さらに調べると、「ありあけの歴史と風土 第20号」に

吉田安弘氏の「金比羅の有翼天使像とおめき村の掟」に、この中にこの像のことも書いて

ありました。結城了吾氏(元26聖人館長)の本にも蟹のことが。

Photo_4

要するに聖書ではなく、フランシスコ・ザビエルの話でした。

ファウスト・ロドリゲス(神父?)が伝えたそうですが、舟で海を渡っているとき嵐にあい、そ

の時、き、ザビエルが紐に繋いだ十字架を海にひたし無事を祈っているとき、紐が切れ海

に沈んでいったそうです。ところが、浜辺についたところ、はさみに十字架を挟んだ蟹が海

から出てきたそうです。


この話、聖人伝説かなと思っていたら、歴史家の間にも議論があり、マドリッドの宮殿に保

管されている十字架がファウスト・ロドリゲスの説明とピッタリ合っているそうです。

「鹿児島カテドラルザビエル記念聖堂」の鐘にも蟹が彫ってあるそうです。


とにかく、他にも隠れ切支丹像として蟹が彫ってあるのがあるようです。皆さんも、島原半

島の神社等に行ったとき、蟹とか魚とか彫っていないか見てください。ひょっとしたら・・・


さて、しばらくこの像を見ていたのですがふと疑念が。

下の台座に建立者の名前が書いてありますが、「小浜町 雲仙公(不明) 栗原(不明)

 同(不明)  同(不明)」となっているのですが、引っかかるのが「小浜町」の文字。


小浜村が町制施行で小浜町になったのが大正13年。キリスト禁止が、明治政府により取

りやめになるのが明治6年。公式に認められるのが明治32年「神仏道以外の宣教布並堂

宇会堂に関する規定」。


「小浜町」と彫ってあるなら少なくとも、大正13年以降に作られたもの。それなら、何もこん

な山の中、しかも仏像に偽装して作る必要もないのだが。

例によって「雲仙お山の情報館」によって聞いたところ、詳しくは変わらないが、古くはない

ものだということ。また、書かれている名前は雲仙の人であり、子孫はいないが、雲仙で唯

一の信者だったとか。


先祖の供養か、まだ、大正、昭和初期の時代、この地域でキリスト教徒と言うのが、はば

かられたので、あのような像を造ったのか?隠れ切支丹だったのか?

三鈷の松にも「足元に蟹が彫ってありキリシタン信仰(隠れキリシタン?)の証だと云われ

ています。」と書かれていますが・・・


切支丹遺物には間違いないが、事実は闇の中。あとは、想像、推理するのみか。

見にいくときは、出来れば数人で行った方が良いでしょう。

12


帰りは久しぶりに「六兵衛茶屋」へ。ここの裏が紅葉で有名になっている「三十路苑」です。

13 14_2

冷えた体に「ろくべえ」はおいしかった。

※「ろくべえ」はサツマイモを干し、保存しておいて粉にし、水を混ぜ、下ろしがねの大きな

ようなもので押し出しだし、茹でてて食べるもの。

■参考:情報提供

・雲仙お山の情報館

・結城了吾著「ザビエル」

・「キリスト教シンボル事典」

・「ありあけの歴史と郷土第20号」吉田安弘氏「金比羅神社の有翼天使像とおめき村の

 掟」

・ブログ「三鈷の松」


2012年3月 2日 (金)

雲仙・絹笠山~かくれキリシタン像(?) その1(雲仙市小浜町雲仙)

P2090208

2月9日、十数年ぶりに絹笠山に登ってきました。

寒いし、心臓病はあるし、どうしようかと思ったのですが、絹笠山は849Mの山。昔、雲仙

に外国人が多く遊びに来たとき、夕日の素晴らしさにサンセットヒルという名前をつけたハ

イキングコース。以前登ったときもたいしたことはなく、天候も良かったで出発進行。なに

せハイキングコース。


今度登る気になったのは、三鈷の松という雲仙の知られざる所を紹介したブログがあり、

その中に、「絹笠山の隠れキリシタン像」という記事と、「島原半島のキリシタン文化~かく

れ切支丹の遺物と遺跡」という本に絹笠山の「金比羅山社の聖なる蟹」という写真が載っ

ており、見ておきたかったのですが、実際見てくると疑問に思う事があり、ここしばらく考え

ていたのですが、やはり謎が残るまま、まあ、専門家でもないし気楽に書いてみましょう。


話が長くなるので、絹笠山登山とキリシタン像の2回に分けて書きます。

絹笠山に登るには、白雲の池と、温泉街から登る道、2つあるのですが、白雲の池から登

りました。寒いせいか、池の岸は薄く凍っていましたが、レッツゴー。

Photo Photo_3

入り口です。登山者の数をカウンターする機械が。「一列になって歩いてください」と書いて

あったので、一人で一列になって3~4回ぐるぐる回ってみました。(冗談ですよ

Photo_4

霜柱と昨夜少し雪が降ったのか、誰も通っていない道を一人サクサクと。山頂まで道は

完備していますから、ゆっくり歩けば子供でも登れるでしょう。

Photo_5

途中休憩所がありますが、ここらあたりから、林に入っていけばキリシタン像があるはず

なのですが・・・

Photo_6

こんな所を行くのかと思うとちょっと腰が引きました。道がよく分からない。どうするか、

とにかく頂上までいってゆっくり考えることに。

Photo_7 P2090172

山の中で標識を見るとほっとします。とくに右の山頂0.3KMを見るとあと少し、何しろ学校

の運動場の400Mトラックより短いのですから、と思ったのが甘かった。やはり、平地と山

では違いますね。ここからは、ちときつかった。

Photo_9

山頂です。以前はがっちりしたコンクリート建ての測候所があったのですが・・・良く運動会

などで天候が心配なときは、ここに電話をして、聞いたのですが。


看板に説明が書いてありましたが、大正 11年に島原半島西部を震源とする地震で27名

が死亡。これにより、災害に対する意識が高まり、大正13年に県立温泉岳測候所が設

立、絹笠山に測候所庁舎が建てられ、昭和14年に国に移管され、昭和44年に雲仙岳測

候所と名称を変更したそうです。

そして、昭和52年アメダス観測所に移行したそうです。意外と歴史があったのですね。

Photo_10

アメダスでしょう。看板には「雲仙岳特別地区気象観測所」とありました。

Photo_12

良い眺めですね。国見岳、妙見岳、平成新山などがはっきり見えます。下の方にゴルフ場

と温泉街。

Photo_13

左手の海が橘湾。反対側、右手の海が干拓問題でゆれている有明海。夕日はこの写真

から少し左手の方に沈みます。綺麗でしょうね、二人で手でも繋いで見ると。

さて、明日はキリシタン像の所へ。(続く)

(参考:各説明版より)



2012年3月 1日 (木)

長崎と西郷四郎~長崎歴史文化博物館「孫文・梅屋庄吉と長崎」展にて

1

今日は諫早の病院で定期検査。前立腺のなんとかかんとかの値が上がっているので、来

週は病院での楽しいお泊まり検査。看護師さんは、かみさんと違って優しくていいし。ガミ

ガミ言われなくてすむし。でも、近頃は男の看護師さんも増えて来ているし・・・看護師さん

の指名制度ってありませんかね。キャバレーみたいに。


予定より早く終わったので、長崎の漢方医さんの所へ。ところが、今日は休診。木曜日は

休みだって分かってたはずなのに馬鹿だなと反省。


時間があったので、昼サロへと思ったのですが、アルコールはドクターストップ、金はない

し真面目に資料を捜しに長崎歴史文化博物館へ。


しっとりと雨で濡れている風情も良いですね。団体客も来てなかったし、平日だし静かなも

のでした。あ~あ長崎は今日も雨だった。

2_2 

御白州。意外と狭いですね。遠山金さんは今日は代休だとか。

4

さて、「孫文・梅屋庄吉と長崎」展をやっていたので、せっかくだから見ていきました。

受付の人、サボっているのではありません。私の写真の邪魔になるので横にどいたので

すが、一緒に写ってしまいました。

3_2

なかに、一番上の写真の孫文の大きな像が。これだけは撮影して良いと書いてありました

ので、写真を撮って、主な人物の名前が横にが書いてあったので見ると。

6_2

なんと「西郷四郎」の名が。講道館の四天王言われ、「姿三四郎」のモデルと言われた。

しかも肩書きは「東洋日の出新聞社」になっています。これ、ほんまかいなと思って、監視

している館員の可愛いお姉さん(多分臨時かアルバイトか?)を呼んで、「これ、あの西郷

四郎」と聞いたのですが、「分からないと」ということ。たぶん、「西郷四郎」の名前も知らな

いのでしょう。

5

白線の四角で囲んだ人物です。帰って調べてみると、やはりその通りでした。ウィキペディ

アによると、講道館の師範代になり加納治五郎が洋行した折、講道館を出奔、大陸浪人

と言われた宮崎滔天と共に大陸運動に身を投じ(ここらまでは知っていたのですが)、19

02年鈴木天眼が長崎で「東洋日の出新聞」を刊行すると、同新聞の編集長を務め、長崎

で柔道、弓道を教え、長崎遊泳協会の設立に関わり、同協会の監査として日本泳法を指

導したそうです。

長崎の遊泳協会と言えば、古式泳法の小堀流。長崎市の方はねずみ島を思い出すでしょ

う。


この西郷四郎の物語は長崎遊泳協会のホームページ、「資料室」の「新聞記事」の中の

「姿三四郎を追って」(朝日新聞・福島版だそうですが)に詳しく書いてあります。「革命以

前に孫文はここにあった日の出新聞の土蔵にかくまわれていた。・・・」なんて書いてありま

す。面白いこと請け合いです。

病気を得て病気療養中の広島県尾道が終焉の地になったそうです。


西郷四郎については、我が尊敬する、夢枕獏先生の「東天の獅子」と読み比べれば、もっ

と面白くなると思います。企画展は3月25日までだそうですから、興味ある方は行って見

てください。


知りませんでした。西郷四郎が長崎と孫文と関係があるなんて。勉強不足でした。

反省をこめて、博物館付属のレストランへ食事をしに。

7 8

例によって、一番豪華で一番安い銀嶺ランチを。もちろんお一人様ランチです。

外を見れば曇りガラス。「曇りガラスを手で拭けば」なんて歌がありましたが、拭いても先

の見えない人生。ああ、悲しき我が心、ですか。

9

帰りは、こんなのも売店で売っていたので孫への土産に。

しっつこいけど、知らなかったな。



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