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2012年3月20日 (火)

西郷四郎(姿三四郎のモデル)と長崎その2~東洋日の出新聞社 付録:今日の島原城

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さて、昨日、西郷四郎の講道館からの出奔の事については書きましたが、その後を、少し

補足すると、出奔したのが、1890年。鈴木天眼が東洋日の出新聞を出したのが1902

年。西郷四郎は発行人兼印刷人として載っています。鈴木天眼は戊辰戦争で敗れた二本

松藩出身(会津藩の説あり)、西郷四郎は会津藩出身。どこかで、接点はあったのでしょ

う。


この、1890年~1902年の西郷四郎の足跡はあまりはっきりしていないようで、ウィキベ

ディアによると、「宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。」となっており、夢枕獏によれ

ば「西郷四郎は、この後、鈴木天眼たちと合流し、すぐに大陸には行けなかったもの・・・」と

なっおり、この間紹介した長崎遊泳協会のホームページ資料室の新聞記事、「朝日新聞福

島版~姿三四郎を追って」によると、「わずかな資料によれば、日露戦争とそれに伴うロシ

ア、ドイツ、フランスの三国干渉に揺れる世情の中、各地を転々とした。」と書かれていま

す。「各地」とは外地も含むのかどうかは不明です。


ただ、はっきりしているのは、西郷四郎の養子になった孝之氏によれば、加納治五郎が熊

本の第五高等学校の校長に赴任するとき、博多駅で出迎え再開したそうです。朝日新聞

によると「・・・四郎もただ頭を下げたままで止めどなく涙を流していた、と古老の話であっ

た。」手記はそう記す、と書いてありました。なお、同新聞によれば1894年に旧制二高で

柔道指南として就任したとありますが、半年で姿を消したとされているそうです。、この、長

崎遊泳協会のホームページの記事は是非お読みください。面白いですよ。


さて、上の写真が「孫文先生故縁之地」としてありますが、「東洋日の出新聞」あったところ

です。長崎でも有名な喫茶店「ツル茶ん」です(倉庫を改造して喫茶店にしたと店内の説

明にはありましたが・・・)。長崎のトルコライスで有名な所です。

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標柱の上に説明版がありますが。

写真左から、孫文、真ん中が鈴木天眼、一番右が西郷四郎。随分小柄に見えますが、身

長153㎝(151㎝、156㎝、158㎝の諸説も有り)、体重52,3㎏位だったそうです。写真

はクリックすると大きくなります。

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孫文は長崎に来るたび、この、東洋日の出新聞社を訪れていたそうです。


ここで、私と西郷四郎との鼻くそほどの接点があります。この新聞社は長崎市の鍛冶屋に

ありますが、時代は違いますが、私の生まれも加治屋町、ここから200~300メート位離

れたところでした。


腹が減ったのでついでに昼食を、ちゃんと「トルコ三四郎」もありましたが、ツル茶んライス

を。

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付録:今日の島原城。梅はほとんど散っていました。何本か花を残すのみでした。

    橘神社の桜はまだまだです。    

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