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2011年12月 9日 (金)

橘中佐二つの銅像~雲仙市千々石町その3

さて、いよいよ千々石の銅像です。千々石に「上山(じょうやま)」という所があります。

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橘中佐の銅像は最初この上山の橘湾(当時千々石灘)を一望する、自然巨岩の石の上に建てられたのです。

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銅像は大正7年11月に竣工。除幕式は大正8年2月9日。3m30cm実に堂々たる銅像です。除幕式は、各方面の方が参加をし盛大に開催されたと言うことでした。

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上山から見た現在の風景です。

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橘中佐像が建っていたところの現在の写真です。どこに建っていたか分かりますか?

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この建物は、昭和27年9月8日、奈良県高市郡明日香村の仏頭山上宮皇院菩提寺橘寺の別院として、長崎仏輪会の篤信者の方により建立されたみたいですが、昭和48年奈良本山橘寺に移管され現在は無人の寺になっています。町内の方に聞いても経過等知っている方はおられませんでした。

ただ、この写真は真夏に撮ったのですが、意外に綺麗にしてあり、何方か手入れをしてある様子がしました。

さて、どこに銅像がと思って探したのですが、分かりません。山の中腹にとも聞いていたので、山の中まで調べたのですが、全然分かりません。

調べに行くこと2~3回、建っていた所の証拠がやっと分かりました。俗に六角堂と言っていますが、そのすぐ横の所の巨石の所だったのです。

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四角で囲んだところ。木で隠れて良く分からなかったのですね。この岩の上に橘中佐の銅像が建っていたのです。

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よく、 銅像等には由来、顕彰銘がつけてありますが、

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昔の写真で見てもこの部分に銘板が設置されていることが分かります。これで、やっと銅像の設置場所が分かりました。そしてこの銘板は現在、橘神社の銅像の横の所にあったのです。四角で囲んだところです。サイズも上山のとぴったりでした。

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橘中佐銅像銘とあり、大正8年2月9日と刻んでありますから、除幕式の日です。

橘中佐の家系、経歴、軍歴等が書いてあり、書いた方は最後に「宮中顧問官従三位勲一等文学博士三島毅撰時於齢九十」と読めました。もう、間違いはないでしょう。(写真をクリックすると大きくなります。)

さて、大切な話を忘れていました。静岡の銅像は供出され、なくなりましたが、同じく千々石の銅像も第二次大戦終末期に、戦争用材の供出に迫られたのですが、町民有志の懇願により供出を免れたのです。

また、敗戦により、占領軍のよる撤去の命令を恐れ、町民の手で隠蔽されたのです。隠蔽場所について町民の多くの人の話を聞けば、上山の森の中に隠したと言う話が多く、山の中を多少調べたのですが、証拠等まったく分かりませんでした。

ただ、「千々石史談」第2号の「橘中佐と日露戦争の残影」(本多一義氏)の中には、「終戦後には軍事主義の象徴とされ、占領軍の心中により撤去の運命に迫られた。しかし志ある町民はこれを隠蔽し(千々石町民が銅像を白い布に包み密かに千々石海岸に埋めたと伝わるが、誰が、いつ、どの場所に隠蔽したのかは現在でも不明)・・・」と書いてあるのですが、私も調べましたがついに分かりませんでした。

「うちの、爺さんが橘中佐を隠したのを手伝ったげな。」という話ぐらいはどこかで聞けると思ったのですが、まったく陰に隠れたままでした。

橘中佐の像の所に説明版があります。しかし、ここに書かれてあるほど簡単な物ではなかったのですね。

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さて、この後、隠蔽された所から、昭和22年生家の橘家に安置。昭和29年に現在地に移設。移設当時の写真です。

 

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その後、昭和51年銅像の台座改を修約1,5メートル嵩上げし、現在にいたっています。なお、橘神社が創建されたのは昭和15年のことです。


(参考:「千々石町史」「千々石郷土誌」「千々石史談創刊号・第二号」 又、千々石、特に第三四連隊に関する静岡、名古屋のブログを参考にさせていただきました。)

☆だいたい、橘中佐にはあまり興味がなく、銅像が最初上山にあったということを聞き、見に行き、まったく場所が分からなかったことから、段々に興味を持ち始めたのです。これが7月で結局ブログをまとめるまで5か月ほどかかってしまいました。

ただ、千々石の方も、北村西望作成の銅像が二つあったこと、特に、名古屋、静岡の部分については知らない方も多く、また、二つの銅像についてはまとめて詳しく書かれたのがなく、一応まとめてみたものです。

参考文献の原典調査もしていないため、間違いも多いと思いますが、ここらが私の限界です。興味を持たれた方は各自なりの方法で調査してみてください。推理小説を読むより面白かったですよ。でも、あ~疲れた。(橘中佐二つの銅像 終了)


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コメント

はじめまして。雲仙市観光ガイド協会と申します。
昨年より本格的に観光案内を始め、現在月に1回まちあるきを実施しております。
来月、15日に千々石の街歩きを計画しており、情報収集しておりましたところ
貴殿のブログを発見し、さっそく拝見したところ雲仙市を中心に沢山の事を調べてあってとっても勉強になりました。
よろしければ、来月のまちあるきで案内する参考にさせていただけませんか?
6月にも千々石を散策し、橘寺跡地へ行ってきました。橘寺は今年の6月5日に完全に閉山致しました。たまたま開山に携わった方々にお会いし、お話を聞かせて頂いたので間違いないですよ。 
今回は新年第一回目なので、橘神社周辺を散策するコースです。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。   担当:一山

ご苦労様です。
私のもブログも参考にされるのは構いませんが、橘神社でしたら、神社の宮司さんが橘中佐のお孫さん、橘周次郎さんですから、一回おたずねして話を伺ってはいかがでしょうか。生の話が伺えると思います。気さくな方です。
また、千々石史談会の方もかなりの情報をもたれています。千々石公民館に連絡すれば責任者の方が分かると思います。
又、図書館、公民館に「千々石史談」「千々石町史」「千々石郷土史」も置いてありますので、参考にいかがでしょうか?
なお、橘寺については「千々石郷土史」には「昭和48年6月、奈良本山橘寺に移管」と書いてありますから、「移管」後「本年6月本格的に閉山」と考えられまが、地元では何の話もなかった状態です。
あの寺はどうにもよく分かりません。

橘中佐の事についてよく調べられている事に感心しました。
私も、もっと良く聞いておけばよかったと反省しています。
戦前は「六角堂」のところにあった事は知っていました。
ただ戦後間もないころ、進駐軍に見つからないように隠した事は聞いていませんでした。
一部の人で内緒にしていたのでしょうね。
親から、橘中佐の軍神としての話も良く聞いたのですが、それよりも教育者としての橘中佐をよく聞かされました。子供のころの私は、それにも反発していましたが。

橘中佐について調べていくと、部下を思い、慕われていたという面がうかがわれ、ただ単なる軍人の枠を越えていた人みたいで、時代が時代なら千々石の発展に貢献した方だと思います。
軍神として祀られたのは、時代のなせるとところだと思います。
橘中佐の銅像を隠したところ、どうにも分かりませんでした。
あの銅像、かなりの人間がいないと動かせないものなのですが・・・・

はじめまして。長崎出身の神奈川在住者です。「橘中佐銅像」をネットで検索したら、このブログに行き着きました。子供のころ終戦前後の一時期、橘中佐銅像のすぐ下の家に住んでいたことがあります。当時石段を登ったところに建っていた「橘中佐銅像」の場所が遊び場でした。
橘寺はまだ建立されて無かったようで、記憶に残っていません。今月11日、埼玉在住の末弟と大村在住の次弟の3人で橘神社に参拝しました。上山の銅像跡も回り、昔住んでいた家(妹の生家でもあります)がまだ残っているのを発見し感激しました。これもsugikanさんのブログのおかげと感謝しております。有難うございました。

コメントありがとうございます。
橘中佐の銅像が、上山にあった頃に遊んでいたとはうらやましい限りです。

橘寺は(地元では六角堂とも言っていますが)、昭和27年に、長崎仏輪会の信者の方が建てられたみたいですが、地元には門徒の方もおられなく、地元の方に聞いてもよく由来がよく分からなく、現在廃寺になっております。

いろいろと、見られて良かったですね。
橘神社は、今、桜が満開です。いつもより少し早過ぎるみたいですが・・・又のお越しを。


私は千々石に縁の有る者です。先日も上山公園を訪れました。ところでこのブログの4番目の訪問記念の写真と思われる写真と全く同じ写真がうちにも古くからあります。今まではこの人たちは私の古い親戚・家族と思っていました。しかし、他の方が同じものをお持ちとなるとこの人たちは誰?という疑問が出てきました。よろしければ筆者がこの写真を入手された経緯や写真そのものの来歴をお教えいただけたらと思います。よろしくお願い申し上げます。

原 輝夫様
写真についてお訊ねですが、この写真は千々石町老人クラブ連合会が平成4年に刊行した「懐かしいふるさと写真集」に掲載されたものです。
残念ながら写真提供者の氏名は掲載が無く、30年前の発刊なので老人クラブ会長、編集委員さんも亡くなられているので、写真提供者を見つけるのは不可能かと思われます。ただ、写真の説明に「大正8年 上山(じょうやま)岩上に立つ橘中佐銅像」とあります。
多分、千々石在住のどなたかが所有している写真と思われますが、大正8年頃のご親族の方を調べれば何か分かるかもしれませんが。

ご返事ありがとうございます。千々石の家は雲仙で写真館をしていたので「懐かしいふるさと写真集」に提供したのかもしれませんね。「大正8年」は新しい情報です。しかし、謎はなぞのまま(笑)

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