2020年9月18日 (金)

「島原藩下屋敷」のお隣さん

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以前、島原藩江戸屋敷について三回ほど書きました。

→こちらをクリック   →こちらもネ  →もう一つ、こちらもヨ


江戸絵図を見ながら二点ばかり、おや?っと思うことがあったので調べてみました。上の江戸図、矢印が島原藩下屋敷の場所です。各絵図はクリックすると大きくなります。


一つは島原藩下屋敷のお隣は誰なのよ、と言うことと、「下屋敷」は正式には「抱屋敷」ではなかったかの疑問です。


最初の方について、島原藩のザックリとした説明です。


島原半島周辺を有馬氏が押さえ、最初は日野江藩。「日野江城」と後年「島原・天草の一揆」の舞台となる「原城」がありました、現在の南島原市。

有馬晴信の時代、晴信は「岡本大八事件」で死罪。本来は一家断絶の所、晴信の子「直純」の妻が家康の養女であったためか、一時日野江城藩主を継ぐも、延岡藩へ転封、その後、子の清純の時代糸魚川に移封、その後越前丸岡藩へ移封(ここ、大事だから覚えておいてください)、明治まで続きます。


島原藩は一時幕府領となるも、松倉重政が藩主となり、子の勝家の悪政により「島原・天草の乱」勃発。勝家は切腹は許されず、大名として恥になる斬首刑。


次に高力家が二代、次に松平(深溝)家が五代、次に戸田家が二代、次に松平(深溝)家が戻ってきて明治まで続きます。

ということで、島原藩主として「有馬系」と「松平系」になります。

さて、江戸図の方ですが、実際の江戸図、復刻、国立国会図書館のデジタルコレクションをあせること数枚。

年代順に行くと、左が亨保年間左の矢印が「有馬トノモ」、右が「有馬左右門(?)」。右の図「松平トノモ」「有馬??」、「有
馬??」については後で分かりましたが、これは後ほど。

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寛政時代の図。「松平とのも」と、これ残念ながら読めませんが下の段「左」と「へ」は読めそうです。青の矢印は先日紹介した「千代ヶ崎」です。

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天保時代の図。「松平とのも」「有馬???」。「???」の所、古文書専門の方に読んでもらったら「さへのえ」ではないかとのことでしたが、正確には分かりませんでした。
嘉永時代の図。「松平とのも」と「あり馬??」。「??」はまったく読めません。

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と見ていって、面倒だから調べるの止めようかと思ったら2枚の図が手に入り、左の図「松平とのも」と「あり馬外吉」。もう片方が明和六年(1796)の図。「松平大和」「有馬大之進」。

ここを手がかりに調べると「松平家」は官職名「主殿守(とものもかみ)」がほとんどですが後期の初代松平藩主「松平忠恕」の官名が「主殿守、大和守、飛騨守」となっているので左の図は「大和守」の時代だったと思われます。


丸岡藩第四代目藩主が「有馬允純」。幼少名が「有馬外吉」。この殿様、生まれが1747年、藩主として跡を継いだのが1757年。わずか10歳の時と考えると、まだ幼少名を使っていたのかもしれません。


次が「有馬誉純」で幼少名「有馬大之進」。生まれが1769年、父の跡を継いだのがなんと1772年。何回計算しても「3歳」の時に家督を継いだことになり、父親と同じでまだ幼少名を使っていたのでしょう。


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丸岡藩主の官名を見ると「左衛門守」が多いようです。「さえもん(ざえもん)」、律令時代は「さひょうえ」と言っていたようです。有馬晴信は「左衛門太夫」、直純は「左衛門太夫・左衛門佐」を使っています。

「有馬左右門」は「ありまさえもん」とも読め、「さへのえ」も「さひょうえ」ではないかと思います。発音は時代によって変わっているので、しかとは言えませんが。


忘れていました。上から二番目の左の「有馬??」は「有馬日向」ですね。第三代目「有馬孝純」の官職名が「日向守」。


上のような事から、下屋敷「島原藩主松平家」のお隣は「丸岡藩主有馬家」でした。


なんと、肥前島原の昔の藩主「有馬家」とその後の島原藩主「松平家」の藩主がお隣とは、話し合ったわけでは無いと思いますが・・・


なお、この地は以前書いたように江戸の名勝地でもあり、景色を眺めつつ、お隣同士酒を酌み交わし「その後の島原はどうでござる」など話している図を楽しく思い浮かべるのですが。


もう一点ですが、「抱屋敷」か「下屋敷」か。


島原藩主の事跡を書いた「深溝世紀」、寛永12年12月の所に「因老中板倉内膳正重矩、請買目黒長峰之地為別墅、報可」とあり、又、「新編武蔵野風土記稿」にも「松平主殿守抱屋敷当村中目黒上大崎三田等四村入會ノ土地ナリ」とあり、抱屋敷の気がするのですが地図では「●」がついており、これは「下屋敷」を表すのですが、私が「抱屋敷」と「下屋敷」の概念がはっきりしないので、これは今後の研究として・・・・


なお、本文は時代合わせ等をしていなくて間違いもあるかと思います。今日の所はこのへんで、長々とお付き合いありがとうございました<(_ _)>。



2020年9月15日 (火)

歴史を語る「絵葉書」~雲仙市千々石川

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最近、又、千々石川の写真を入手しました。集まりかかれば集まるもんですが。

下から二段目の絵葉書は下流から撮ったものですが、上の写真は上流から撮ったものです。 飛び石が上流(手前)と下流(向こう側)に見えます。


現在、上流の飛び石は大きいものの、途中から切れてしまっています。下流側の飛び石は、見えはするものの、よく見ないと分からない感じです(以前紹介したかな?)。


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一番上の写真の飛び石と飛び石の間が近いので、現場に行ってみたら意外と近い事が分かります。上が上流の、下が下流の飛び石。

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一番上の写真、家の屋根が瓦なので近い時代ではないかと思われます。

現在、古文書研究会に入って勉強をしていますが、南串山の庄屋さんの文書(もんじょ)に、山が串のよう見えるから、「串山」という名前が付けられたなど書いてあります。もし、この文書がなかったら「串山」の名前の謂われが分かったかどうか、2~300年前の文書です。


以前書いたとおり、下の一番右の葉書は明治41年の年賀状に使われたものですから、それ以前の風景ものだとおもわれます。左の2枚の写真も明治時代だと推察されます。


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明治45年が109年前。人生100年時代、100年はあっという間です。

この絵葉書が残っていなかったら、このような橋が架かっていたことは分からなかったと思います。昔を知り、今を伝えていくことが必要だと思うのです。絵葉書に歴史ありです。


【追記】


忘れていました。上流の飛び石の写真を撮っていたら、婆様がいたので話しを聞いたら、この飛び石を渡ったところに祭りの御旅所があり、祭りの行列はこの飛び石を渡って行ったそうです。


ホンマかいなと思って、カミサンにきいたら「渡ったよ」と、で、もう一人50年配の女性に聞いたら「私も渡ったよ、小さいとき渡りきれなくて、川に落ちたけど」と言う話しでした。


祭りの参加人数は昔に比べれば、少なくなったそうですが、下のように沢山のひとがいますが、本当に渡ったんですかね。


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いつ頃まで渡っていたのか詳しくは分かりませんでした。

当然、他人が知っていると思っても、話しをしてくれないと分かりません。今の子どもは、この飛び石の事も知らないと思います。


昔を知る方も段々と亡くなっています。今の時代、記憶より、何らかの形で記録を残す、話しを伝えていく事が必要だとつくづく感じました。


2020年9月13日 (日)

★「欲が出ました」ヨシタケシンスケ著 ★「弱った心がラクになる・後ろ向き名言」鉄人社編集部

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歳をとったら、本の読み方が違ってきて・・・

厚い本は読まない、字が小さな本は読まない、登場人物が5名以上の本は読まない、高い本は買わない、ということでエッセイを読むことが多くなりました。


ヨシタケさんの本、2,3冊読みましたが、なんとなくホットしながらも、考えさせられるところがあります。


以前「思わず考えちゃう」が出版され、思いのほか好評だったので、出版社の方に「欲がでた」ようで、この第二弾が製作された、という事らしいです。


ヨシタケさん、「欲」について「物欲」「睡眠欲」「自己顕示欲」「性欲」「食欲」「出世欲」のほかに「納得欲」なるものを考え「わかりたい」「理解したい」というのは人間だけではないか、だから、「『納得いかない』ことが非常に大きなストレスになるのではないでしょうか。」と。


数ページ、この「納得」についてイラストでというかスッケチ風に書いていますが、結局「欲望には勝てんわな」と言うことだそうです。


・だってホラ本人だもの。あきる訳にはいかんわな。


・そうですねおっぱいは好きですね。やっぱり哺乳類なんで。


・羊の皮をかぶった羊。


・僕はこの世に100年くらいしかいないんだ。期間限定なんだヨ!

 ~ウチのカミサンは賞味期限切れです。ワタシもですが。

・すべての死は早すぎるか遅すぎるのだ。


・「仕事は、愛だ」というとそれっぽいけど、「愛は、仕事だ」というと怒られそう。

 ~伊奈かっぺいさん、女性に「遊びじゃないよ」といったら、「遊びじゃないなら、仕事なの」と言われたそうですが・・

エッセイ、スケッチありの、なんとなく自分を見直したいときの本。



「後ろ向き名言」。

落ち込んでいるとき、「頑張れよ!」と言われると「ウルサイ」と思うときがあります。言った人間との関係もあるのですが。「悲しいときは、愉快な曲を聴くより、悲しい曲を!」と言った人もいます。この本、「弱った心」のための「ネガティブ」な名言集です。

・「これが一生か、一生がこれか。ああ嫌だ嫌だ」

樋口一葉の「にごりえ」の中のセリフだそうです。樋口一葉の人生を考えれば・・・

・「人生なんて食って、寝て、やって、終わり」

立川談志の言葉。談志らしい言葉ですが。

・「生きていることが辛いなら/いっそ小さく死ねばいい」「生きてることが辛いなら、くたばる喜びとっておけ」

森山直太朗の「生きてることが辛いなら」の一節。ワイドショーで批判され、一部のコンビニで放送禁止になったそうです。

・「生きてるだけで丸儲け」

明石家さんまさんの言葉。よく、この言葉を言っていますが、1985年8月12日の日航飛行機事故の時の飛行機を予約していたそうですが、直前の番組収録が早く終わったので、一便早い飛行機に乗り難を逃れたそうです。実感のある言葉。

・「女房は死んだ、俺は自由だ」

とはボードレールの言葉、「カミサン死ぬな、オレが先だ」とはワタシの言葉。通夜とか、葬式とか、法事とか大変なんスよ。アレ考えると、先にいった方がよろしいかと。

・「誰でもいいから彼氏が欲しいって言ってた人からフラれました。」

ネットの住民からですが、ワタシも経験あり。あのときは、人生のどん底に落ちました。

・「生きてれば必ず良いことがあるって?もう待ちくたびれたよ。」

これも、ネットの住民さんです。

詳しいことを書けば、皆さんが読まれるとき、面白くないので簡単に書きました。あとは、本をお求めいただき読んでもらえれば、「ナルホド」と思うことばかりで、人生のためになると思います。


2020年9月11日 (金)

ボチボチ「台風」の準備を

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経験の無い台風が来る、と言いながら、あまり、たいしたことはありませんでしたが、今回、台風に対する準備について良い勉強をしました。

大きな台風ということで、危ないと思われるところ二ヵ所は大工さんに来てもらい、しっかりと打ちつけてもらいました。


上のような所は、枠があるので大丈夫とは思いつつも、ひどい風の時は小石が吹っ飛んできてガラスが割れるかもしれず、ここらあたりは自分でもできるだろうと、ホームセンターにベニア板を買いに行ってみたら、買い物をするどころか駐車場にも入れない状況。


やっと、店に入れても、全部売り切れ。なにせ、釘まで売り切れ。残っていたのが、発泡スチロールの板が1,2枚とラバーみたいなのが一枚。とりあえず買って来ました。


ところが、これが役にたち、上の窓にベニヤ板なら、切って合わせる必要があるものの、発泡スチロールならカッターナイフでキズを入れて割るだけ。枠とガラスの間にピッタリ。針金などで留めもしなかったものの、バタつきはまったくありませんでした。


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なお、窓にはサッシがあり、この部分は隙間の広さが合わなかったので、ラバーみたいなのを寸法を合わせて、切って入れたらピッタリ。物置のガラスの部分にこれをガムテープで留め、その上からベニア板で覆うのも良いかとも。

今日のNHKのローカルニュースで、台風寸前だと品物がなくなるので、日常的に準備を、と言っていたのでホームセンターに買いにいったら、まだ全滅でした。


発泡スチロールは厚さがいろいろあるので、自分の家にあった物を。


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2,3日前、NHKあさイチで窓を保護するのに、クラフトテープ、布テープ、養生テープ、OPPテープ、どれが良いかを実験していましたが、OPPテープが一番良いということで、買に行ったら田舎なのか、売り切れなのか、ありません。

いつものAmazonを見たら、柄物テープがあり、OPPテープは透明で使いにくいので、祭りとネコの足跡テープがあったので、取り寄せました。孫のところにイロイロと送るので、次からこれを使おうと思っています、


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喉元過ぎれば熱さ忘れるで、まだまだ台風が来ると思うので、ボチボチと準備をしましょう。



2020年9月 9日 (水)

「一分銀」の桜の事

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「一分銀」です。表と裏。一分銀四枚で一両小判一枚になります。このことは、いずれまとめるつもりです。

裏面の「銀座常是」については→こちらをクリック(大黒常是の項になります)


古銭の事を調べようと思っていたら、下の小冊子を見つけました。普通、一分銀というと一種類だと思うじゃありませんか。ところが、書体の違い、作りの違いによって何種類かあるようで「一朱銀」にいたっては126種類(「一朱銀」収集の手引き:茨城貨幣研究会 八木明男著)もあるそうです。


下の本を読んでいたら、「一分銀の分類方法」が書いてあり、書体の特徴、「定」極印、側面の仕上げの状態を見る方法もあるそうですが、上の一分銀を見ると、周囲に20個の桜が打刻されています。一分銀は作られた時期により「天保」「安政」「明治」の三種類に大別されるそうです(それ以外もあるようですが)。


この桜が一つ逆に打刻(逆桜)されているそうですが、この、位置により天保、安政、明治が分かるそうです。


下の右の図、赤の部分に逆桜があると安政の時代、緑の部分が明治、青の部分が天保だそうです。


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「逆桜の位置が表裏とも上二段にあるときは安政一分銀、表の最下段、裏の三段が天保一分銀のゾーンです。ただし、全ての組み合わせが見つかっているわけではありません。」ということだそうです。

下の一分銀、表の下段の右端「逆桜」。裏の下段右から二番目が逆桜。と言うことは「天保一分銀」だと分かります。


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表の二段目の左、裏の一段目が逆桜で「安政一分銀」だと分かります。

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と言うようなことを考えながら見ていくと、古銭にはまりそうで怖いですね。他にも調べると面白い事があり、追々とご紹介を。

(参考資料・文、図引用「『一分銀』収集の手引き(入門編)定量銀研究会 桜野 鼓音編」より)




2020年9月 7日 (月)

嵐の後の「橘湾」

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昨日の台風、かって経験したことのない、とかTVなどで放送をしていました。

市の防災無線でしきりに避難するように放送があって、私も避難準備をしていたら、カミサンがなにもしていないので「どうするんだ?」と聞くと「家にいる」という事で、死ぬときは一緒だと決めているので、二人で家にいることにしました。


最大風速が60m位だというので、多分、家が吹っ飛ぶだろうなと覚悟を決めていた所、あまり風も吹かず、明け方にしばらくゴーッという音がして、家が多少ミシミシという音がしましたが、まったくの無事でした。前に来た台風9号が海面の温度を下げ、気圧が下がって多少勢力が弱まったとか。


市の警報が解除されたので、橘湾に行ってみました。


以前にも書きましたが、この海は「千々石湾」「千々石灘」と言われていましたが、橘湾を望む上山(じょうやま)に橘中佐の像が建立された折「橘湾」名付けられました。


左が一番最初に立てられた上山ですが、橘中佐の銅像が臨んでいる海が橘湾。敗戦後、進駐軍から接収される恐れがあるという事で、某所に隠され、今は橘公園の入り口に建てられています。(以前、紹介しています)


下に見える家が全部藁葺屋根です。右の写真が橘中佐の生家。一部は橘神社の社務所前に移転をしています。現在、家はなく、記念碑が建ててあります。


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閑話休題。
橘湾に行ってみたら、海は荒れているものの、わ~、と言うほどではなく、ただ、カモメが遊んで、群れ飛んでいる状況でした。一応、良い鳥も悪い鳥も、危険な所で遊ばないように注意はしてきました。

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海の向こう側に崖がありますが、千々石断層です。この下を温泉鉄道が走っていました。


2020年9月 5日 (土)

「江戸の家計簿」★磯田道史監修~江戸のお値段・今のお値段

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よく、江戸時代の一両は、今のいくらにあたるのか、ということが話題になります。

以前にも書いたように、イロイロと難しい問題があり、一口には言えない、ということになります。


磯谷氏、「武士の家計簿」で一般の方にも知られるところとなりましたが、「江戸の家計簿」の、「まえがき」と「本書における江戸時代のお金の計算方法」の所を読めば、どうして一口に言えないのかがよく分かります。


以下、磯谷氏の本から要約してみます。


「まえがきー江戸時代の貨幣制度」


・江戸時代、金貨、銀貨、銅貨、紙幣(注:藩札)があり、「三貨制度」といい、また、地域によっても異なっていたそうです。


・なお、名古屋と金沢を結んだ東側の東日本は金の貨幣を使い、西日本は銀の貨幣が流通をし、原因として東日本は金を産出しているところが多い、西日本は銀山が多かった。
また、西日本は古くより大陸と繋がっており、明・清の時代には中国では銀が流通をしており、西日本では銀遣いになったそうです。ということだそうです。

続けて「一両は6万円?それとも30万円?」ということになるわけですが・・・


「本書における江戸のお金の計算方法」ということで。


ひとつの目安として米の価格に基づいて換算する方法。磯谷氏は「現代価格」と呼んでいます。

2007年度の農林水産省統計に基づき、米5㎏を2100円で換算。米一石(約150㎏)=金一両は大体6万3000円。

もう一つの目安は労働に対する賃金で換算する方法。「現代感覚」と呼んでいます。

現代の大工見習いの平均賃金は1万5000円。江戸時代の大工見習いが、1石=1両を稼ぐためには20日間働く必要がある。1石=1両は、1万5000円×20日で30万。

比較して書くと下のようになります。

「現代価格」(現代の米5㎏あたり2,100円”2007年農林水産省統計に基づく”換算)

(米)1石=(金)1両=(銀)60匁=(銭)4,000文=(現在の価格)63,000円

「現代感覚」(現代の大工見習いの日当1万5000円として換算)

(米)1石=(金)1両=(銀)60匁=(銭)4,000文=(現代の価格)300,000円

となり、この驚くべき差額。これで、一口には言えないということが分かると思います。


この本は「第1章 江戸時代の収入①武士編」「第2章 江戸の収入②農民・町民編」「第3章 江戸時代の物価①食品編」「第4章江戸時代の物価 ②料理・嗜好品・雑貨編」「第5章 江戸時代の文化と経済」からなり立っていますが、第3、4章は「現代価格」で算出、第1、2章は「現代感覚」で算出、第5章は両方の計算法を用いたそうです。


本の内容は帯に書いてあるようなことですが、詳しくは本をお読みください。定価800円+税で、江戸の経済通になれます。なお、台風10号直撃で停電が予想され、場合によってはしばらくお休みカモです、m(_ _)m。




2020年9月 2日 (水)

これが「一文銭(寛永通宝)」なのか

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古文書を勉強して3年ばかり、相変わらず全然読めず・・・予習復習をまったくしていないので当たり前ですが。古文書の中に、上のように

一 鶏卵 大       掛目 十三匁

一 同  中通例     同  十匁
一 同  ひよこ玉子 小 同  六匁三分
一 野鴨玉子     小 同  廿弐匁

などと書いてあり、なんとなく分かるのではありますが、では、どういう貨幣を使ってたのよ?というと、全然分からず古銭を少々集めてみました。

なお、大判・小判も買ってみようかと思ったのですが、カタログを見ると一番お高いのが「100,000,000円」。お安いのでも超10万以上というので止めました。紀伊國屋文左衛門のようにキャバクラに行ってばらまけばモテるだろうとは思っていたのですが。


で、ネットオークションで安いのを集めてみました。偽物も入っていますが。


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下が一番有名でお安い「寛永通宝(かんえいつうほう)」。一文銭です。銅、鉄で鋳造され、明治2年まで200年ばかり庶民の銭として使われ、日本各地で作られたそうです。

これを見ながら懐かしかったですね。今は靴のサイズを㎝で表しますが、昔は靴のサイズを「文」で表わしていました。一文銭が約2.4㎝。これが何枚並ぶかで、サイズを表わします。靴サイズ24㎝の方は10文になります。私が小さいときはまだ「文」で言っていた記憶があります。ジャイアント馬場の「16文キック」を思い出します。


銭形平次も一文銭を投げていました。落語の「時蕎麦」でも一文銭が登場します。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)、オヤジ何時(なんどき)だい・・・」
と。ご存じない方はYouTubeで「ジャイアント馬場」さんも「時蕎麦」も「銭形平次」も見られます。一文銭は庶民のお金です。

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なお、「寛永通宝」を見ていると少し大きく、重たいのがあり、アレ?と思って裏返したら、波の模様がありました。調べたら四文銭だそうです。

ちなみに、銭形平次と言えば大川橋蔵、八千草薫さんが有名ですが、北大路欣也さんも演じています。投げ銭を見たら波模様が入っていたので、北大路さんは四文銭を使っているのですね。もったいない。


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他のをあせっていると、下のようなのが入っていて、よく見ると「宝永通宝」という銭で、宝永5年十文銭として鋳造され、裏面に「永久世用」とあり、左斜めの所「珍」の字が小さく刻印されています。

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まだバリエーションがあるのですが、キリがないので・・・

古銭であまり程度が良いのでなけらば、まとめて千円もしないで手に入ります。実物を手に取って眺めれば楽しいですよ。




2020年8月31日 (月)

千々石海岸の外人さん~絵葉書をよく見れば

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以前、千々石にあった「千々石ホテル」の事をかきました→こちらをクリック。

上は「千々石ホテル」発行の絵葉書集ですが、右は千々石ホテルの裏側みたいで、下に写っている石垣は現在もあります。


このホテルは上の表紙に見るように、外国人向けだということが分かります。千々石は海岸と松原が美しく、また、雲仙、小浜に行くにも便利で、外人が遊びに来ていたと言われています。


雲仙の絵葉書には外国人が写ったものが多く残されていますが、千々石の絵葉書などには外国人の姿が写されたものがありません。ただ、長崎歴史博物館にロシア人の雲仙、小浜等の旅行案内書があり、この中の千々石海岸風景に外国人(旅行案内の著者?)が写っているのがありましたが、掲載するには手続きが面倒なのでいつの日にか・・・


さて、千々石、小浜を中心に絵葉書を集めていますが、島原半島で絵葉書が多いのが雲仙、小浜、次いで、島原と千々石が同じ程度と、千々石の絵葉書が多いのが意外です。他の町村のものはほとんどありませんでした。


雲仙、小浜に行く途中なのでそのせいかなどとは思いますが、はやり、千々石は風光明媚で外国人が訪れていたせいかなどと思いはするのですが。


絵葉書が少し溜まってきたので、整理をしていたら下の絵葉書が目にとまり、一番上が千々石海岸、真ん中が雲仙絹笠山の測候所(いまはありません)、一番下が雲仙のゴルフ場。


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おやっと思って千々石海岸を拡大すると、外人さんですね。男性1名、女性3名。写真はクリックすると拡大しますが、特に女性の服装、帽子を見ると外人さんだと分かります。時代がいつなのかは判断できないのが残念ですが。いずれにしても、外国人が訪れていたことが分かります。

海岸の家は茅葺きになっています。右手の山は、釜山、猿葉山。遠くにみえるのが雲仙岳。


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古い絵葉書はよく見ると、いろんな発見があって楽しいものです。



2020年8月29日 (土)

「千々石の松原」と「長崎福田の千本木松原」~こんな間違いも!

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   (各写真はクリックするとハッキリと拡大します)

上の絵葉書は先日「二つの『千々石橋』」ということで紹介した物です。→こちらをクリック


下は裏側で「Bridge Chijiwa Japan」と英文で書いてあります。絵葉書として使ったかどうかは疑問なのですが。


絵葉書としては「日本の千々石の橋」ということで書いてもあり、風景も千々石川そのままでなので信じていたらですね。


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下のような絵葉書を見つけ、上の写真より下流で撮ったのか、と思って説明を見たら、なんと「長崎福田千本松原の景」となっているんで、ビックリしました(°0°)。

で、また、私、チョンボして間違えたかと思い何人かの人に聞いたら、「これ、千々石でしょう」という事だったので、よく比較すると特徴的なのが二本の松の傾き加減、橋の様子は一緒です。一緒の風景ということは分かります。


長崎の福田というと福田遊園地(正式名称:長崎遊園地)があったところで、小さい頃は2,3回遊びに行きましたが、「千本木松原」などは見たこともありませんでした。


しかし、心配は心配だったので、福田の地域センターに問い合わせると、歴史に詳しい方がいるので聞いてみますと、親切な対応をしていただきました。


2,3日後、連絡をいただき、福田にはこの風景はないとの事で、やはり「千々石」が正解でした。絵葉書屋さんの間違いでしょうが、こんな事もあるのですね。


あちらこちらの、史跡の看板の説明、町の歴史のパンフレット等々を見ると、時々間違いが見受けられます。皆さんも、ちゃんと書いてあるから正しい、とは思わないように。


この絵葉書も、私が手にして調べなかったら「福田」と思われ続けていたでしょう。


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現在、福田の千本松原の松は松食い虫で枯れてしまっているそうです。下の絵葉書はかっての「福田の千本松原」の風景に間違いないとの事でした。なんとも、良い風景ですね。

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2020年8月27日 (木)

「よく噛んで食べる/忘れられた究極の健康法」★齋藤滋著

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本棚をあせっていたら、上の本が出てきました。2005年発行の本で、かなり前になります。

当時、若い方の顎が細くなったとかで、食事の「咀嚼」(食べ物を噛む回数)が少なくなった影響ではないか、との話しだったかと思います。


確かに、昔の方と、若い方では顎の形が違っていますね。左は、私の写真です(と言いたいのですが・・・)。どちらが良いかは、個人の好みですが。


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咀嚼の回数が少なくなったのは、食事の内容のためだといわれました。当時「オカアサンヤスメ」「ハハキトク」と言う言葉が言われました。

「オカアサンヤスメ」は「オムレツ」「カレーライス」「サンドイッチ」「ヤキソバ」「スパゲティ」「メダマヤキ」の頭文字。


「ハハキトク」は「ハンバーグ」「ハムエッグ」「ギョウーザ」「トースト」「クリームシチュー」の頭文字。


いずれも、柔らかいものばかりで、咀嚼回数は少なく、顎の力はほとんどいりません。


この本に、各時代の食事内容、咀嚼回数が書いてあり、


★「弥生時代」(卑弥呼)~ハマグリの潮汁、アユの塩焼き、ナガイモの煮物、カワハギの干物、ノビル、クルミ、クリ、もち玄米のおこわなど。となっていて、卑弥呼さん意外と良い物食べていますね。

★「平安時代」(紫式部)~ブリとアワビの煮物、カブ汁、ダイコンのもろみ漬け、ご飯。
★「鎌倉時代」(源頼朝)~イワシの丸干し、梅干し、里芋とワカメのみそ汁、玄米のおこわ。
★「江戸時代初期」(徳川家康)~ハマグリの塩焼き、サトイモとゴボウなどの煮物、タイの塩焼き、カブのみそ汁、納豆、麦飯。
★「江戸時代後期」(徳川家定)~かまぼこ、白身魚の吸い物、カレイの煮物、カブとウリの漬物、豆腐のみそ汁、ご飯。
★「戦前」(昭和10年代の家庭食)~大豆のみそいため、たくわん、野菜のみそ汁、ニンジンとダイコンなどの煮物、麦飯。
★「現代」~コーンスープ、ハンバーグ、スパゲッティ、ポテトサラダ、プリン、パン。

以下は咀嚼回数と食事時間、食事のカロリー


★「弥生時代」(卑弥呼の時代)~3990回・51分・1302キロカロリー

★「平安時代」(紫式部の時代)~1366回・31分・1019キロカロリー
★「鎌倉時代」(源頼朝の時代)~2654回・29分・1131キロカロリー
★「江戸時代初期」(徳川家康の時代)~1465回・22分・1450キロカロリー
★「江戸時代後期」(徳川家定の時代)~1012回・15分・985キロカロリー
★「昭和10年代」(戦前の家庭食)~1420回・22分・840キロカロリー

★「現代」~620回・11分・2025キロカロリー
(「よく噛んで食べる・忘れられた究極の健康法」齋藤滋著より)

なお、弥生時代の食事は「魏志倭人伝」の記録を参考にし、咀嚼回数、食事時間は20歳代の学生に実際に食べてもらったそうです。


確かNHK「ためしてガッテン」だったかで、噛むことで唾液の分泌が良くなり、健康に良いという事を放送していた記憶があるのですが。


噛む回数については、食事の内容と共に、食べ方も影響していると思うのですが。
私たちの時代は「飯食うときは、しゃべるな」とか、学校の給食では「静かに食べなさい」といわれた記憶があります。現代、ニュースで学校給食の場面を見ると、4,5人ブループで会話を楽しみながら食べていますね。しゃべりながらでは、しっかり噛むこともできないと思うのですが。もっとも、最近はコロナの影響で、楽しく給食を食べる事も、しばらくの間はお預けになったみたいですが・・・・


楽しく食べるのが良いのか、健康を考えて食べるのが良いのかは各自の問題ですが、両方できる方法があれば良いのですが。


この本「噛んで心を守る」「噛んで脳を守る」「噛んで体を守る」「唾液は不良長寿の妙薬」「楽しんで『よく噛んで食べる』コツ」と言うことも書いてあります。少し古い本ですが、食べることは健康の基本の一つなので、興味のある方はご一読を。


2020年8月24日 (月)

「キマイラ15 魔宮変」~夢枕獏著&【おまけ】「ストリートビューカー」を見た(多分)

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最近、本を読まなくなりました、というより、読めなくなりました。

本を読んでいくと、目が疲れボケ気味になり、また、登場人物が頭に入らず、「山田太郎って出てくるけど、誰だっけ」と前のページを読み返すと、2
ページ前に出ていたり、です。「キマイラ」程度の厚さの本だったら、2時間もあれば読めたものを、結局、3日かかりました。

発行が2020年8月30日になっていますが、今日は8月24日。ママあることではありますが、暑いので、気にせずに・・・


前の「キマイラ14 望郷変」が2019年5月、1年3ヶ月ぶりの登場。で、読むと、忘れている、忘れている。最初に登場人物と多少の筋が書いてあるので、なんとなく思い出し、思いだし。


フォギェルと雲斎の対話に、アンドルッチャンという人物の事が出てきますが、この人物と九鬼麗一との戦い。真壁雲斎と宇名月典善との戦い(本人同士は”遊び”と言っていますが)。変貌を遂げた菊池良二とフィリードリッヒ・ボックの戦い。菊池良二の変貌には驚かされます。この部分読ませ所で、いつも、ワクワクします。


さらわれた織部深雪を救えたかにみえた九十九の前に現れた・・・・


一冊かかっても、深雪さん救われないのですね。かわいそう。


なお、「それは、赤須子の、三千年にわたる、慟哭の声であった。」というように、赤須子も現れます。


例の如く、作者の後書きですネ。

今年69歳だそうです。気力、体力的にも少し落ちてきたようですが、書く意欲は十分。ただし・・・

「キマイラ」だよ、「キマイラ」だよ。

ぼくが今、直面しているのは、かなりしんどいものだ。
「キマイラ」は今、完結に向かって進んでいるのだけれどー
どうなのよ、それ。
完結させてしまっていいのか。
終わらせてしまっていいのか。
(中略)
終わっていいのか、物語。
終わらないことこそを、物語作家は目指すべきなんじゃないのか。
・・・・・・・・・・・・・・

などと、グズグズ書いてはおります。夢枕獏を読んできた者としては、分かるのではありますが・・・


【おまけ】「キマイラ」の事が分からない方のために・・・「ストリートビューカー」を見た(多分)。


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コンビニの駐車場に変な車が停まっていました。多分、ストリートビューカーですね。この車が、通っていたらピースでも。全世界でアナタの姿が見られます。

車を勝手に写真に撮って、ブログに載せて良いのか?
良いんです。私の家も勝手に撮影され、許可なくストリートビューに出され、全世界に知られてしまいました。



2020年8月22日 (土)

第6回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」~キリシタン禁制の高札

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今回で6回を迎えました。千々石関係の古絵はがき、島原・天草の乱の資料、アニメ・挿絵の原画、栗原玉葉、長崎関係の古地図と古絵はがき、そして今回が「キリシタン禁制の高札」。

キリシタン高札については、先日から書いているので、こちらを→クリック こちらも→クリック


高札はケースの外に出しているので、博物館の展示とは違い、間近に見られます。読み方、内容の説明も置いておりますので、ご利用を。


大きな高札場は浮世絵などにも登場しますが、上の右の絵図、南串山の古地図を見ると、庄屋さんの家の横に、「御高札」と描いてあります。なお、よく見ると石垣が組まれ、高札は柵の中に立てられています。


以前紹介しましたが、庄屋さんの古文書を読むと、出火のとき、最初に高札場、郷蔵を守るように書いてあり、高札がいかに重要なものであったかが理解できます。


コロナの影響で、人を集めるチラシをどうしようか考え、一ト月ばかり延ばしましたが、町内は来週の初め配布する予定です。

市外の方は場所が分からないとのことで、チラシの一番下に写真を入れました。
チラシはクリックすると拡大しますので、ご覧下さい。

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なかなか本物を間近に見られることはないので、是非のお越しを。10月末まで展示をする予定ですが、「きまぐれ」なので延期するかもデス。


2020年8月20日 (木)

長崎県「小浜~雲仙」の登山道路~古写真より

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雲仙に車で登る道路は増えましたが、主な道路は島原、千々石(以前は狭い道でしたが、拡張して使う人も多くなりました)、そして、小浜から登る道路があります。

一応、小浜道路の関係あるところを書けば、


・慶応 3年(1867)4月29日イギリス人二人、茂木・小浜を経て雲仙登山、小地獄にて逮捕され長崎へ護送。

・明治22年(1895)小浜~温泉(うんぜん・雲仙)間登山車道建設が始まる。
・明治43年(1910)千々石水力発電所が発電を開始。小浜の町の夜に美観を添える。
・明治44年(1911)温泉、日本初「県立温泉(うんぜん)公園」として発足。
             温泉・小浜に電灯がともる。
             英国人ジョン・フィンドレー氏、スチュードベイカー(車名)にて温泉(雲仙)にくる。
             乗合自動車(5人乗り)も小浜~温泉(雲仙)間を走る。運賃一人20銭。
・大正11年(1922)小浜~温泉(雲仙)間にバス運行。
・大正15年(1026)小浜~温泉(雲仙)間の自動車道路が完成。
・昭和 9年(1934)雲仙が国立公園に指定。「温泉(うんぜん)公園」を「雲仙公園」に統一変更。

読んでみると、自動車道路が完成する前に、車は通っていたことが分かります。


上と下の絵葉書、似ているようで多少違いがあります。電柱の数、標識の内容。


Img_20200819_0003

上の写真より、電柱が増えています。家の形、ガードレールは一緒かな、という感じ。

Img_20200819_0002 

標識を拡大したら、左は「Road to Unzen」のみ、右は「温泉公園」の文字が入っているので、明治44年以降だと分かります。 道路工事は明治22年に始まるので、一番上の写真は明治22年から、「県立温泉公園」に指定された明治44年の間かな、という気もするのですが・・・

右の写真、標柱の小さな看板の文字が全然分からす残念なのですが、縦に書かれた文字、多分「二十歳(才)以下の人は酒を飲んではなりません?????をお通り下さい」と読めるのですが、小浜は飲み屋さんが多かったので「二十歳以下の人は・・・」と書いたのかな?「????をお通り下さい」は、どこを通るのか気になるのですが・


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下の写真は、明治2年発行の「雲仙」(雲仙岳後援會発行)からの写真で、小浜~雲仙間の道路です。今は立派な道路になっていますが、昭和の初めの姿は舗装もなかったということですね。

Img_20200819_0001

「雲仙お山の情報館」から提供していただいた写真です。時代は分かりませんが、戦後ですね。こんな洒落たバスもあったんですね。左はゴルフ場横。中の写真、真ん中の少し上に白っぽい所が見えますが、ゴルフ場と思われます。ということは、バスが走っているところは温泉街から仁田峠までの循環道路。右の写真は完全に循環道路。おっかない所を走っていたんですね。

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このバス、もったいないですね。今、レトロ時代、このバス復活させたら、絶対に評判になると思うのですが。

以上、「雲仙お山の情報館」写真。「湯けむりの記憶(西暦2000年・平成12年記念)」(雲仙市ビジターセンター協議会発行)。「小浜史談」(小浜町史談編集委員会刊)を参考にしました。




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